ノバルティス・ファーマという製薬会社から発売されている降圧薬、ディオバンの臨床研究に重大な虚偽の報告があったことが発覚し、恥ずかしながら、わが母校慈恵医大を含めたいくつかの大学とノバルティス社が糾弾されている。
この薬、降圧作用そのものには嘘はないと思われるのだが、降圧作用の他に、心臓や腎臓に対しても有効に働くというふれこみで、他社の同種薬剤を押しのけて莫大な売り上げを誇った。私は当初から眉に唾していたが、ノバルティスが声高に宣伝したこの心保護作用、腎保護作用について重大な嘘があったようなのだ。
昔から「嘘つきは泥棒の始まり」と言われた。嘘を厳しく戒める言葉だが、裏返せば、それだけこの世には嘘が横行しているということだ。嘘への誘惑は身近に転がっていてとても魅力的。ちょっとした嘘はばれないことが多い。しかも嘘によって得られる利益は小さくない。
こうして小さな嘘が積み重なっていきやすい。その場の雰囲気を良くするためについていた程度の嘘つきが大嘘つきに成長していく。だからこそ諺で嘘をつくなと戒めているのである。
現実の世界では許される嘘もある。むしろ本当のことを言わない方がよいことだってある。たとえば、他人から食事を供される。口からつき出したくなるほど不味い。では、「とても食えた代物ではない」と真実を伝えることが正しいか?
相手が親ならばそれでもよいだろう。しかし、仕事上の知人や結婚を期待している女性に対しては、絶対に真実を口にしてはいけない。黙って完食して「ごちそうさま」と言うか、「おいしいけどついさっき食事をしたばかりなので、これ以上は食べられない。また今度の楽しみにしておくよ。」くらいにしておいた方が賢明だろう。つまり、嘘をついた方がよいのだ。こういう嘘を「方便」と言う。
方便を知らないと、周囲の人と要らぬトラブルを巻き起こし、社会の中で浮き上がった存在になってしまう。方便を使えない、理解できないということが特徴的なのがアスペルガー症候群の人たちだ。結果、彼らは「空気の読めない奴」という烙印を押されて、疎ましく思われることが少なくない。
嘘にはいくつかのパターンがある。ないことをあると偽る嘘や事実を捻じ曲げる嘘は積極的な嘘。一方、あることを語らない嘘や多くの事実の中で都合のよいことだけを選択して語る嘘は消極的な嘘と言えよう。
積極的嘘の方が悪質と見られるが、こちらは証拠さえ固めれば簡単に嘘を見破ることができる。消極的な嘘は見破ることも、その裏に隠れている悪意を糾弾することも難しい。消極的嘘の代表例は霞が関作文だろう。「・・・・・・・・することができる」とか「・・・・・・・することを妨げるものではない」と言った言葉遣いや、文末に小さく書かれた但し書きによって、表面的な解釈とは真逆のことを行って憚らない。嘘を指摘されても「することができるであって、しなければいけないとは書いていない」と白を切る。ある意味積極的な嘘よりも陰湿で性質が悪い。
だが、消極的な嘘のうち、「都合の悪いことは語らない」が正式に認められる場合がある。刑事裁判における被告人は自分に不利なことについては黙秘することが許されている。
また、しゃべる立場によっては消極的な嘘が暗黙の了解になっている。セールストークだ。自社の製品を売ることが目的の営業マンが自社の製品の欠点をことさら述べ立てる必要はない。セールスポイントだけを強調したとしてもそれは許されるのではなかろうか。聞いている方も、これはセールストークだと構えて聞くからである。しかし、客によっては、あえて自社製品の欠点を殊勝に語るセールスマンに信頼を寄せて購入を決める人もいるだろう。その辺を見極めて、わざと正直に長短取り混ぜて語り、その中に小匙1杯の嘘を混ぜる。そういうセールストークこそ1枚上手かもしれない。虚々実々の駆け引きだ。
今回のディオバン事件の嘘はどうだろう。裁判の場合の証人に相当する、厳正に公平性を要求される学者、しかも大学教授と言う権威をもった人間が、もっとも客観性を求められる研究の場で嘘をついた。この嘘は絶対に許されない。嘘はついていい人が、ついていい状況で、ついていい範囲の嘘をついてこそ、初めて方便となる。 嘘にはTPOが大切なのだ。
今回の嘘はTPOすべての条件であってはならない嘘だ。特に取りまとめをしたとされる大学教授は、研究者としては死刑に値する唾棄すべき行為をしたことを自覚し、即刻辞職しなければならない。
だが、ディオバン事件は氷山の一角に過ぎないと私は思っている。確かにノバルティスがやりすぎだったのだろうが、多くの製薬会社、多くの大学教授でも似たり寄ったりのことは行われている可能性が高い。
なぜならば、以前のコラムにも書いたように、製薬業界においては各社御用達の学者たちが恥ずかしげもなくスポンサー主催の講演巡業をしているからだ。また、最近の研究は大量のデータを高度な統計計算によって処理したものが多い。統計技法に精通した者にとって、統計とは上手に結論を誘導できる魔法の手段であることも以前のコラムで述べた。
矜持を失った学者と市場原理で行動するメーカーが手を組んだ時、ついてはならない嘘が生まれることは目に見えていたのだ。
あらゆる権力や金銭的誘惑に負けず、真理の追及に一生を捧げる孤高の大学教授像は私のかなわぬ理想なのだろうか。