夏の間、蟻たちは冬に備えて食料を蓄えるために働き続け、一方キリギリスはバイオリンを弾いて歌って過ごす。やがて冬が来て、キリギリスは食べ物を探すが見つからない。そこで蟻たちに食べ物を分けてくれと頼む。しかし、蟻は「夏は歌っていたんだから、冬は踊ったらどうだい?」と拒否。キリギリスは飢えて死んでしまう。
この有名なイソップの童話、「蟻とキリギリス」からはいくつかの教訓が解釈される。一つは、キリギリスのように将来への備えを怠ると悲惨な結果を招くから、蟻のようにリスク管理をして将来の危機に対そして行動して準備しておかなければならない、というもの。二つ目は、蟻のようにせこせこ貯めこむ者は利己的で、目の前の餓死寸前の者にさえ救いの手を差し伸べない冷酷で独善的なケチが多い、というもの。三つめは、生き物はどんなに汲々としてもいずれ死は免れない。だから食べることばかりで一生を終える蟻よりも、生を謳歌したキリギリスの生き方の方が素晴らしい、という解釈だ。
なるほど、一遍の童話には深い深い人生哲学が隠されているのだ。いずれにしても蟻は朝から晩まで働き続ける生き物であるというのは常識になっている。
ところが、北海道大学農学部の長谷川英佑准教授率いる研究チームが面白い研究結果を発表して話題となっている。「働かない働き蟻」の存在だ。かれらはシワクシケアリの行動観察から、働き蟻の約20%の蟻は働かないことを発見して、蟻はやみくもに働くという定説を覆した。さらに面白いことには20%の働かない蟻だけの集団を作ると、その8割はせっせと働くようになる。一方、働きづめの蟻の集団だけにしておくと、やがてその20%は働かなくなる。
蟻は人間以上に社会的生物なのに、そんな蟻の中にも必ず怠け者がでるということだ。しかしこの怠け蟻は単なる落ちこぼれ、はみ出し者というわけではないらしい。むしろ蟻が健全な社会を維持するためにとても大切な存在らしい。
というのは、20%くらいの働かない蟻がいる集団の方が、殆どの蟻が働き続ける集団よりも長期間その集団を維持できるのだそうだ。この理由を長谷川教授はこう説明している。
もし、すべての蟻が働いていると、外敵の襲来や環境の重大な変化で、すべての蟻が全滅してしまう。ところが普段働かないで危険な状況に遭遇する危険性がない蟻が生き残ることによって、一朝事あった時にその集団は生き延びることができるということだ。
怠け者にも存在価値があるのだ。もちろん、平穏無事な日々が続けば、一生働かないでのんびりと一生を終える蟻も出てくる。羨ましいことだ。
また、物覚えの悪い落ちこぼれ蟻あるいははぐれ蟻もいる。蟻は餌を見つけるとフェロモンを出して仲間の蟻たちにその餌に辿り着くルートを教えて、皆で餌を巣まで運ぶ。ところが、そのルートを通らないで勝手なルートを行き来する蟻が少数でてくる。一見お馬鹿さんに見えるが、そういう蟻が新しい最短ルートを発見したり、通常のルートが何らかの理由で遮断された時の代替ルート確保に役立つ。結果として、そういうはぐれ蟻がいる集団の方が生存率が高くなる。
人間の世界でも、自分たちと少しでも違っている者を異端として締め出す社会よりも、異端児を許容できる社会の方が発展する。
蟻の社会はさらに巧妙な仕組みになっているらしい。若い蟻は主として巣の中で幼虫の世話などをし、年齢を経ると巣の外に出て、餌探しや外敵との戦闘を担当する。つまり余命の長い若者は危険の少ない作業をして、命を落とす危険のある外での作業は余命の短い年寄り蟻が担う。こうすることによって、一匹、一匹の蟻がより長く社会的貢献をすることができ、ひいては社会全体の労働力もより長く保つようになっている。
一方、今の我が国を見ると、そろそろお迎えが近い高齢者がいつまでも物欲にとらわれて、財をため込み、これからの社会を担ってもらう大切な若者に過酷な生活を強いている。中には自分は毎日酒を食らいながら、自身は戦争体験はないくせに、「今の若者は根性がないから徴兵制にして戦争でも体験させた方がいい」なんて息巻く年寄りまでいる。利己的で我執の肥大した人間よりも、蟻の方がはるかに賢い生き物のように思えるのだが、いかがであろうか。
言うまでもないことだが、大半が働かない蟻の集団はたやすく滅びる。就労しない者の増加がとどまることを知らない我が国の将来は極めて危うい。