医学と言う偏狭な分野を学んだものにとっては、世の中分からないことが多い。宇宙の始まりが虚の時間であったなどということは、逆立ちしても想像がつかない。ピタゴラスの定理の証明といった数学の難しい証明問題など手も足も出ない。
こういった問題は、端から難しそうだから、自分が分からないことに納得できる。しかし、身近な出来事で、皆が分かったふうに語っていることなのに、自分にはどうしても理解できないこともある。
新政権はアベノミクスと自称し、日銀を脅し上げて強引にインフレを招こうとしている。これを受けて、円は大幅に安値に振れ、株価は上昇した。今後円はどこまで下がるか、株価は1万3千円を超えるかなどと喧しい。こうして、皆が当たり前のように語っている、為替相場、またその為替相場と市場株価の関係が、私にはどうしても理解できない。
その昔、貨幣価値は金の価値に裏打ちされて固定していた。この頃は分かりやすかった。なぜならば、金1オンスを35ドルと定めて、いつでもドルと金は交換することができた(兌換紙幣)。人は1枚の紙切れに過ぎない紙幣ではあっても、それが一定量の金という物の価値を持っていると信じることができたからだ。
ところが1960年台後半になると、アメリカはベトナム戦争に伴う財政支出がかさんでインフレが急加速。また貿易収支が急激に悪化した。このために、1971年8月15日、当時のニクソン大統領が一方的に、金とドルの交換停止を発表した(ニクションショック)。これによって、主要各国はそれまでの固定相場制から変動相場制へと移行していった。
ここから紙幣は本当にただの紙切れになってしまったのではないだろうか。各国は金の保有量や生産能力とは無関係に紙幣を発行することができるようになった。安倍が日銀に要求していることがまさにこれだ。意図的に物価が2%上がるまで10,000円札を刷り続けろと言っているのだ。
それでも、貨幣はその国の国力に応じてそれなりに評価されていた。しかし、国力の評価というのは人間の行う業であり、価値観によって評価が異なってくる。さらにそこに、日替わりで変わる貨幣の価値差を利用して金儲けをたくらむ連中の思惑によって上げ下げさせられる。物々交換の際に基準となるべき貨幣までもが商品に化してしまったのだ。こうなるともうなにがなんだか分からない。価値を評価する際の絶対的な指標というものがなくなってしまったからだ。
東日本大震災によって我が国は壊滅的な被害を被って、明らかに国力が低下した。本来ならば、円の価値は大幅に下がらなければならないはずである。ところが、現実には一気に円高が進んだ。国の生産力が落ちたのにその国の貨幣の価値が上がるというのはおかしいのではないか。さらには、本来国の強さの指標たるべき貨幣価値が下がるということは悲しむべきなのに、国民の多くは大喜び。私にはどうしても理解不能だ。しかし、エコノミストと称する人たちは当たり前のようにこのメカニズムを説明する。
エコノミストが携わる、経済学(Economics)とはギリシャ語のオイコス(家庭、世帯)とモス(掟、習慣、法律)の合成語であり、「家庭や共同体における財産のやりくり法」である。転じて、社会科学の領域で人、金、物にまつわる事象を取り扱う学問とされている。つまりなんでも経済学の対象となる。
経済学は社会の動きの根本原理を解明するのかと言えば、実際にはそうではない。過去に起こった金にまつわる世の中の動きをまことしやかに説明するだけだ。その方法に数学を駆使する。ノーベル経済学賞受賞者の多くは高等数学を使ったモデル構築によって受賞している。
しかし、難しい数式や統計的手法は人を欺くのにうってつけの方法であることは繰り返し述べてきた。もともと、文化や時代によって、いや各人各様に価値感の異なる経済的な事象をいくら数学で捏ね回しても、科学的な結論へとは導かれない。そこには、モデル製作者の恣意が大きく働くからだ。というよりは己の価値観にあったモデルをいかようにも作り出せる。言い換えれば、百人の経済学者がいれば百の経済モデルができると言える。
真面目に経済理論を探求されている方には申し訳ないが、私にはどうしてもエコノミストが競馬の予想屋と同族に思えて仕方ない。したがって、ノーベル賞の中で平和賞と経済学賞に対してだけは心から称賛の意が湧かないのである。