師走の語源にはさまざまな説がある。曰く、あまりの忙しさに、日頃おっとり構えている師と名のつく者(医師、学校の先生など)までもが走り回るから。曰く、昔は正月も盆と同様にお坊様が檀家の家を訪れて読経したので年末になるとお坊様も忙しくなるから。曰く、すべての仕事が終わる、仕事が果する、「師果す(しはす)」が「師走」に代わった。曰く、年が終わる、「としはするつき」が訛った。曰く、四季が果てる月の「四極月(しはつづき)」が訛った。曰く、昔は十二月と書いて「しはす」と読んでいた。等々もっともらしい説が並んでいて本当のところはよく分からない。
走りはしないが、この時期医師は確かに忙しい。なぜならば、この時期はインフルエンザが流行するからだ。どういうわけかインフルエンザは毎年、クリスマスの頃からA型が流行り始める。お正月を挟んで1月いっぱい猛威をふるい、徐々に勢いを減じる。一方、B型はA型よりも遅れて登場するが、こちらは2月、3月と春先までだらだらと発症する。しかしなんといってもA型の方が症状が重いので年末、年始の休日診療所はインフルエンザの患者で溢れかえる。
今年はインフルエンザに先だって、ノロウィルスを代表とするウィルス性の胃腸炎が大流行した。通常の風邪よりも嘔吐、下痢といった消化器症状がひどい。特にノロウィルスは重症で、これにかかると2日ほど便所で生活しなければならない。また、感染力が強いために、保育施設や老人施設のような閉鎖空間で大量集団発生となった。
私の診療科では冬だからといって流行したり、重症化する病気は特にない。しかし、殆どの方が服薬を継続する必要があるので、年末年始の1週間分の薬を補充のために受診される方が増える。だから、私の小院もいつもよりは混雑するが、走るほどの忙しさではない。
それでも毎年この時期は気ぜわしい。大掃除(大したことはしないが)、カレンダーや予定表を取り換えたり、松飾りをはじめいろいろな物を買いに行かなければならないからだ。
私が正月を前にして何をさておいて買い溜めする物は、煙草にコーヒー豆、それから猫の餌と砂。この4つが休み中に切れてしまわないかが、強迫的に心配になる。その結果、我が家の正月は煙草、コーヒー豆、猫の餌、砂で溢れることになる。この中でも、ことさら品切れが気になるのが煙草。なにせ私が日頃吸っているアメリカン・スピリッツの黒箱はあまり出回っていないからだ。
というわけで先日、なじみのコンビニに年末年始用のアメ・スピを大量に注文に行ったら、「お店は365日やっているの。今時、正月だからといって物を買い溜めするのは先生くらいなものよ。」と笑われてしまった。
確かに、コンビニがこれだけ普及した現在、正月だからといって手に入らないものは殆どない。スーパーマーケットも営業時間は短縮するものの殆どの店が元旦から営業する。デパートも元旦は休むが2日から営業する。師走と言って物を買い漁るのは古い人間だけなのかもしれない。
昔は、大晦日と言えば、大掃除や買い物のほかに床屋がつきものだった。正月に備えての一連の作業を終えると、きれいな頭で新年を迎えようと床屋に駆け込んだものだ。このため大晦日の床屋はどこも超満員。床屋の待合室で紅白歌合戦を観、頭を刈ってもらいながら除夜の鐘を聴くなんてことは珍しくなかった。
ところが今はどうだろう、私の行きつけの床屋は、この冬は31日から4日までお休み。なんと肝心の掻きいれ時である大晦日を休店するという。店主に尋ねると、最近はあらたまって新年を迎えようとする人は皆無だそうだ。そもそも若い人は床屋に行かない。皆、美容院へ行く。床屋の客である爺さんたちは寒い大晦日の晩になんか家から出てこないのだそうだ。
門松や国旗もすっかりお目にかからなくなった。マンションばかりになって門松や国旗を飾る門がなくなったことが主な理由だろうが、立派な一戸建ての家でも見かけなくなったのだから、住居様式の変化だけではなく祝日と言うものに対する意識変化も大きく関与していると思われる。
つまり、昔と違って大晦日や新年はとりたてて特別な日ではなくなったのだ。
買い置きも理髪もしなくてよい。平常とさして変わらぬ生活ができるのだから便利になったと言えるのだろう。しかし、心を新たにする機会を逸し、のんべんだらりとした日常を続けざるを得なくなったとも言える。
我々は戦後の数十年の間に便利と引き換えにとてつもなく大きなものを置き忘れてきたように感じる。
投稿日:2012年12月30日|カテゴリ:コラム
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