田中真紀子文部科学大臣がまたもや大暴走。文科省の大学設置・学校法人審議会が可と答申し、来年春開校予定だった3つの大学開設に対して「不認可」とした。これに対して当該学校法人や地方自治体から一斉に非難の声が上がった。
真紀子女史、当初は「所轄大臣の専権事項」と突っぱねていたが、あまりのブーイングの大きさに危険を感じたと見えて一転。5日後には前言を撤回して、3校を認可することとなった。これを受けて、秋田公立美術大学、札幌保健医療大学、岡崎女子大学の3校は予定通り来春開校できることとなった。
真紀子女史は以前からドタバタ劇の名優として名を馳せていたが、今回の迷走ぶりは出色であった。まずは「大学設置の在り方を抜本的に見直したい」という政治ビジョンと、この3校が現行の法律に則って設置基準を満たすか、満たさないかという個別の各論的判断とを混同してしまった。またそもそも、すでに行われている行為に対して後出しじゃんけん方式で、できてもいない基準を当てはめようとした。さらには、形勢不利とみるや謝罪もなしに前言を翻し、舌の根も乾かぬうちに「認可」に方針転換。
アメリカのアクションドラマに出てくる暴走車を見ているようだ。信号を無視しブレーキを踏まず突っ込んでいき、衝突するや突然ギアをバックに入れてまたもや猛烈な勢いで後退。平然を装って降りてきたドライバーの周囲には炎上する車と血を流した負傷者が累々。ざっとこんなシーンだろうか。
彼女の魅力は直截的なもの言いと行動が素早いことだ。これは抜きんでた動物的勘によるものだろう。また並はずれた目立ちがり屋で衆人の望むところを察知して公言する。ただ悲しいことに彼女の脳には論理的な回路は発達していないようだ。膨大な知識と明晰な判断力に、やると言ったら徹底的にやりぬく実行力からコンピュータ付きブルドーザーと呼ばれた父、田中角栄とは似ても似つかない。似ているのはだみ声と言い捨てるようなしゃべり方だけだろう
今回の真紀子大臣の行為は法治国家において許されるものではないが、自身の思いつきか誰かの受け売りか分からないが、彼女の目指したものが間違っていたとは思わない。近年の大学の粗製乱造は目に余るものがあり、規制強化は喫緊の要事であるからだ。
テレビの報道番組に顔を出すコメンテーターの肩書を見ると、聞いたことがない大学の教授であることが少なくない。○○国際大学、△△福祉大学、□□文理大学などなど。地名が冠されていないと、いったいどこにあるのかさえ分からない。ちゃんとした教授もいるのかもしれないが、テレビに出ずっぱりの連中が教授というのだから、学者や教育者というよりは有名人を教授にしているのだろう。いったい何を教えているのだろう。
現在我が国には国立86校、公立77校、私立595校、計758校の大学がある。人口17万人に1校存在することになる。さらに少子化が進む我が国でこんなに大学が必要なのだろうか。さらに問題なのはその質の低さである。
最低ランクとされている大学の講義内容を見ると、英語では「アルファベットの書き方」、「日常での簡単な挨拶」、「This isで始まる簡単な構文の英作文」、第2外国語のドイツ語では「Ich liebe dichが分かればA」、数学では「少数や分数の計算」、「円の面積の求め方」、一般教養だと「図書館の利用の仕方」、「ノートの取り方」、「レポートの書き方」といった事項が上げられていると聞く。
中学校で学んできたはずのことや、取り立てて講義で教えるべき類のものではない、常識に属することが堂々と大学のカリキュラムとなっている。こんな教育内容であっても資金繰りや敷地、施設、講師の数がそろって入れさえすれば大学と称しているのだ。日本の最高峰の東京大学でさえ、世界ランクで言えば30位でしかない我が国の教育水準を考えれば、これが実態なのかもしれないが、それにしてもひどすぎる。
そもそも大学とは最高学府であり、自分が特定の分野を志して学ぶ場であり、少数や分数の計算やアルファベットを覚える場ではない。18歳過ぎて、こういったことが分からない者はもう一度中学校のテキストを引っ張り出して自ら学び直せばよい。
今回の騒動の対象となった3大学も相当にお粗末な学校のようだ。札幌保健医療大学の母体である専門学校は人気がなく、しかも北海道は看護学校がすでに充実している。岡崎女子短大の偏差値はかなり低く、願書を出しさえすれば合格できる。秋田公立美術大学もまた然り。しかも東京でさえ都立大学は首都大学東京の1校だけなのに、秋田はすでに2校の県立大学を持っている。
こういった中学校のような大学が乱立させた原動力は、「我が子にはなんとしても大学出の看板を背負わせたい」という学歴コンプレックスの親と、できる限り親のすねをかじって遊んでいたいという子供たちの願望だろう。これを後押ししたのが小泉純一郎と竹中兵蔵の「なんでも規制緩和」だ。彼らの行ったいい加減な政策によってとんでも大学が雨後の筍のごとく乱立した。そしてもっとも恩恵を受けるのはそういった大学の理事に天下る文科省の高官なのだ。
こういうでたらめな行政を正当化させている審査会や有識者会議も厳しく糾弾されるべきだ。ここ数回のコラムでテーマとなっている御用学者の活躍の場である。実際には役人が作ってきた結論にめくら版を押すだけの会議であっても、行政にとっては学者のお墨付きを得ることができ、御用学者にとっては国家から委員を付託されたことによって箔がつく。ここでも両者のもたれ合い権益の構図ができ上がっている。
小数の計算を身に付けただけでも卒業すれば学士様である。そうなると、実力に見合わない望みを持つ。私の知人にコンビニのオーナーがいる。彼は常に人手不足で悩んでいる。募集をかけてもなかなか応募者がいないのだ。やっと見つかっても長くは続かず、すぐに辞めてしまうと嘆く。一方、町には失業者が溢れ、生活保護受給者が増え続けている。人手不足と就職難が併存する奇妙な状況なのだ。
仕事が見つからないとぼやく若者に、コンビニ募集の話をすると、「僕は事務職をやりたいんです」と返事が返ってくる。学歴を問うと、聞いたことのない大学で、さらには一回聞いただけでは何を学んでいるのか想像できない学部。彼が頭に描いている事務職とはいったいどんな仕事なのだろう。パソコンが普及、進化した現在一般事務職の必要度は下がるばかりである。それに本来、労働とは筋肉を使って汗を流すことだ。そういう根本的なことを多くの人が理解していない。
誰でも学士様の現況が、汗水垂らす労働を忌避する若者を大量に生み出している。そして、働かない若者が溢れて国力は衰退する一方だ。大学の粗製乱造の罪は重い。
教育ビジネスの利権に巣食う輩を一掃して、小・中学校の基本教育の再生を図るべきである。読み書き、そろばんをしっかりと身につけてさえおけば、本人のモチベーション次第で将来どんなことでも学ぶことができる。
真紀子女史が投げた一石はとてつもなく大きいものであったはずなのだが、彼女が方法と手続を誤った上に謝罪までしてしまったおかげで、乱造大学そのものが正統化されることが恐れられる。