投稿日:2012年11月5日|カテゴリ:コラム

「被告人を極刑に処する」。裁判を扱った映画で裁判官の口から耳にする言葉である。「極刑」とは「この上なく重い刑罰」という意味で、我が国では「死刑」を意味する。だから、こういうドラマで「極刑に処する」と聞けば、すぐに「ああ、死刑の判決が下りたな」と理解する。
ところが、極刑の意味は国によって異なる。アメリカでは州によっても違う。極刑が必ずしも死刑ではない国が多数ある。そして、先進国を中心に年々と極刑が死刑でない国が増えており、我が国においても死刑を廃止すべきとの声がある。
免田事件(1951年12月25日死刑確定、1983年7月15日再審無罪判決)や松山事件(1960年11月1日死刑確定、1984年7月11日再審無罪判決)のように再審によって、過去に死刑判決を受けた死刑確定者が冤罪であったことが判明する度に死刑廃止論者が勢いづく。確かに、後から無罪だと分かっても死刑が執行された後であれば取り返しがつかない。
死刑をとらない国における極刑とは「終身刑」である。日本には死刑の次に重い刑として「無期懲役刑」があるが、この二つは一見似ているようでまったく異なる。
「終身刑」とはその名の通り、命ある限り刑務所で過ごさなければならない。「無期懲役刑」と聞くと一見、「無期限に刑務所に留め置く刑」のように思われるがそうではない。「刑の期限を定めない」と言っているのであって、改悛の状が認められると、最短10年で仮釈放が許されることもある。最近は仮釈放が認められにくくなってはいるがそれでも平均20年で仮釈放が認められている。有期刑の基本的上限は20年、再犯などで刑が加重された場合の上限が30年だから、場合によっては有期刑よりも軽い刑罰となる。
死刑を廃止して極刑を終身刑にしたならば、絶対に仮釈放されることはないが、一方では冤罪救済の余地が残される。よいことずくめのように思えるがそうとも言えない。身内を惨殺された遺族が、自分たちの払う税金でいつまでも加害者を養い続けることに納得するはずがない。
だから、秋葉原無差別殺人や光親子殺人事件のように残虐な犯罪が起こると、死刑存続派の勢いが増す。さらには厳罰化を求める声が大きくなる。そして実際に、犯罪が年々凶悪化しているように感じる。

最近毎日のように報道される尼崎事件。すでに見つかった遺体だけで3名、行方不明者を入れると8名の人間がこの犯罪集団の餌食になった可能性が高い。この異様な暴行殺人事件が事実であったとすれば、主犯格とみられる角田美代子は利己性、粗暴性、狡猾性、残虐性を併せ持った類稀なる犯罪の女王と言えよう。よく、「人間の皮を纏った悪魔」という表現をするが、角田美代子ほどこの言葉にふさわしい人間はいない。
すでに多くの証拠が遺棄され、犯罪加担者が次の犠牲者となっている異様な事件だけに、司法が彼女の犯行を立証することは容易ではないだろう。しかし、立証できた場合、量刑はむろん極刑以外には考えられない。この場合、終身刑で納得できるか。私は納得できない。
我が国の死刑の方法は絞首刑であるが、この処刑は一見残虐に見えるかもしれないが実際にはそうでもない。踏み板が落ちた瞬間に頸動脈および頸骨動脈が絶たれるので、一瞬にして意識を失う。したがって大きな苦痛を味合うことはない。
絞首刑は日本の他、韓国、エジプト、イラン、ヨルダン、イラク、パキスタン、シンガポールなどで採用されているが、世界に目をやるとこれ以外にいろいろな処刑法がある。電気処刑は米国アラバマ州、サウスカロライナ州、バージニア州、フロリダ州など。ガス処刑は米国アリゾナ州、メリーランド州、カリフォルニア州など。致死薬注射は中国、グアテマラ、タイ、米国の一部の州。銃殺刑はベラルーシ、中国、北朝鮮、ソマリア、ウズベキスタン、ベトナムなど。この他サウジアラビアやイラクの斬首刑、アフガニスタン、イラン、サウジアラビアの石打ち刑といったものもある。
歴史的には、磔、釜ゆで、鋸引き、車裂きといった極めて陰惨な処刑もあったが、現在の我が国では憲法第36条において残虐な刑罰は禁止されているために、絞首刑という方法がとられている。しかし、建て前はともかく、本質的に刑事罰とは私的制裁を禁止する代わりに、国が代行する報復の意味合いであることを否定できない。
したがって私は、死刑は今後とも廃止することはできないし、絞首刑以外の死刑の方法も採用し、死刑にもランク付けしてもよいのではないだろうかと考える。より罪深い者にはより苦痛の伴う処刑をする。尼崎事件を知って、人非人には本当の極刑を持って臨まなければならないと強く考えるようになった。

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