投稿日:2011年6月13日|カテゴリ:コラム

「昨日は楽しい夢を見ました」、「最近、怖い夢ばかり見るんです」、「このところ、夢も見ないでぐっすり眠ります」など、私たち精神科の診察室ではよく夢に関する話題が話されます。ところが、ある時疑問に思いました。「夢とは見るものだろうか?」と。
私たちは何の気なしに「夢を見る」と言い、「夢を聞く」とか「夢を嗅ぐ」、「夢を触る」、「夢を味わう」とは決して言いません。それでは、夢とは視覚に限定された精神活動なのでしょうか。もしそうならば、視覚障害者の人は夢を見ることができないことになります。ところがそんなことはありません。視覚障害の人もちゃんと夢を見ます。
でも、先天的に目の見えない人の夢にはやはり映像はないそうです。途中失明者も失明直後は映像化された夢を見ますが、視力を失って時間が経つにつれて映像のない夢に変わっていくそうです。視覚障害の方の夢は視覚ではなく、残された感覚、聴覚、触角、味覚、平衡感覚、内臓感覚で構成されます。
確かに五感に不自由がない私の夢においても、よく思い返してみると登場人物の発言に怒りを感じたり、とがったものが身体に刺さって痛い思いをしたり、美味しい物を食べて満足した覚えがあります。
特に、私が何回か経験して印象深いのが空を浮遊する夢です。身体中の力を抜いて念じると、自分の身体が少しずつ浮遊していきます。初めのうちは要領がつかめないので頭位をうまく保持できません。横になってしまったり、仰向けになってしまったり、逆立ち状態になってしまいますが、時間とともにコツをつかんで思いのままに空中を浮遊し思い通りのところへ行けるようになります。
この夢の主体となる感覚は深部感覚と平衡感覚です。朝起きても暫くの間は全身の筋肉を意図的に脱力する感覚と、空中をふわふわ漂う感覚が残っています。実際に飛べるのではないかと思ってやってみるのですが、夢は夢、起きてしまうと1㎝も浮きません。馬鹿馬鹿しいと思われるでしょうが、実際にやってみたくなるほど生々しい感覚が残っているのです。
視覚障害者の夢や空中浮遊の夢から分かる通り、夢は視覚だけではなく、すべての感覚に訴えているものなのです。それなのに、なぜ「見る」と表現することに違和感を覚えないかというと人の現実の行動自体が圧倒的に視覚に依存しているからではないでしょうか。夢は現実の行動を反映します。ですから夢の記憶の多くが視覚的なイメージとなるのだと思います。本当はそれぞれの場面で、映像だけではなく音、匂い、味、痛みなど、すべてを感じているのです。だから、「夢を見る」という表現は本当は正しくないのです。
それでは「夢を感じる」と言えば正しいのかというと、それでもまだ夢の本質を表してはいません。夢は感じるだけの脳の受け身の活動ではありません。夢の世界では、実際の身体の動きはありませんが、喧喧諤諤と会社のライバルたちと激論を交わし、あこがれのマドンナと楽しいデートをする体験をしているのです。感覚ではなく体験です。
しかもその体験は舞台上の出し物をただ観ている観客としての体験ではありません。夢の世界では自分自身が演出し主演を演じているのです。脳の極めて能動的な活動なのです。ですから、「夢をする」というのが正しい表現なのではないかと思います。そしてその夢の中の体験は、現の世界で私たちを縛っている時空の制限を超えることができます。何1000万光年先の宇宙ででも、40年前の時代ででも活躍することができるのです。
さあ今夜も思う存分楽しい夢をしましょう。

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