病名は病気の本態を直截的に表記するのが正統派です。たとえば、「結核性骨髄炎」といえば、その病名を聞いただけで結核菌による骨髄の炎症であることが立ちどころに分かります。本態を正確に言い現わしてはいませんが、その病気の特徴的な症状を示す病名としては「三日熱(本体はマラリア)」や「三日麻疹(本体は風疹)」などがあります。
その病気を発見した学者の名前を冠した病名も少なくありません。「バセドウ病」や「アルツハイマー病」などがこのカテゴリーの病名です。その病気にかかった有名人の名前を冠した病名もあります。現在では理論物理学の大家、ホーキング博士が患っていることで有名な筋委縮側索硬化症(ALS)は、つい最近までは伝説的な大リーガーを襲った悲劇的な難病として、ルー・ゲーリック病と呼ばれていました。
ちょっと変わった病名としてはその病気の流行場所がついた「在郷軍人病」などもあります。この病気の本体はグラム陰性桿菌の一種、レジオネラ菌による肺炎です。なぜこんな病名がついたのかというと、1976年、米国、ペンシルバニア州米国在郷軍人会の大会が開かれた際に、参加者と周辺住民多数が原因不明の肺炎にかかって、一般的な抗生剤による治療もむなしく多数の死亡者を出したからです。その後の調査で新種の細菌が発見されて、この菌が大会会場近くの冷却塔から飛散して起こったことが判明しました。こうして在郷軍人がかかる特殊な病気ではないことが分かったにもかかわらず、発見の歴史からこのような病名が付けられました。
本態、症状、関係者の名前、発祥地を冠する病名の他に、小説や映画に因んだ病名もあります。「ピックウィック症候群」は肥満と慢性の高二酸化炭素血症を示す病気で、現在、睡眠時無呼吸症と呼ばれる人たちの中核を占める病気です。
ピックウィックとはチャールズ・ディケンズの小説「ピックウィッククラブ」に出てくる、太っていて、いつもうとうと傾眠で、赤ら顔のジョーという少年が典型的な病態を示しているために、小説の題名を病名にしました。
子供っぽく、自己中心的で無責任、依存的でずる賢い未熟な男性を指す「ピーターパン症候群」は誰でも知っている冒険小説、ピーターパンに由来します。アメリカの心理学者、ダン・カイリーは、いつまでも年をとらない少年ピーターパンを大人になることを拒否する障害者と捉えたのです。
心理学、精神医学の分野ではこの手のネーミングが盛んで、メーテルリンクの小説「青い鳥」による「青い鳥症候群」やギリシャ悲劇の登場人物になぞらえた「エディプスコンプレックス」、や「エレクトラコンプレックス」など数え切れません。こういったしゃれた病名の一つに「ガス灯症候群」があります。
「ガス灯(Gaslight)」はパトリック・ハミルトンの戯曲を舞台化、映画化したサスペンス作品です。1944年に公開されたハリウッド映画がとくに有名で、主演のイングリッド・バーグマンが主演女優賞を受賞しました。
資産家の女性から巨額の財産を奪うために、夫を中心に彼女を取り巻く人が共謀して、彼女を精神病者に仕立てるというのがこの映画のテーマです。この映画に因んで、本当は精神障害ではないのに周囲の人が結託して精神病と診断させられてしまう状態を「ガス灯症候群」と呼ぶようになりました。
精神的になんでもない人が、悪巧みによって精神障害者に仕立てられて、自由や財産を奪われたりするのですから、由々しき事態です。私は、その「ガス灯症候群が」今、増えて、今後一層増加するのではないかと危惧しているのです。
ここ数年私は、弁護士から仕事を頼まれることが増えてきました。法律の現場において、精神状態の如何が重要な問題になることが多くなったようです。そういった経験の中で、私が気になるのは、成年後見制度が施行されて10年の間に、資産家の高齢者の「ガス灯症候群」に複数遭遇しました。
子供間の財産争奪戦が原因であることがもっともよくあるケースです。子供たちの欲によって、まだ自立した生活を送ることができている親が、認知症として被後見者にされてしまいます。子供たちの欲に金儲け目的の有料老人ホームが絡んでくるととても話がややこしくなります。
兄弟間の財産争いは珍しくない話ですが、びっくりしたのは司法書士が絡んで、縁も所縁もない保険代理店の男が一人暮らしの高齢者の財産を好きなようにしてしまったケースです。
制度や法律ができると、必ずそれを悪用して悪銭を得ようとする輩が出てきます。成年後見制度も例外ではないようです。本来は悪徳業者から高齢者を守る目的で創られた制度なのですが、法律や医学に長けた者たちが寄ってたかってこの制度を悪用すると、かえって高齢者に対する凶悪な刃にもなります。
後見制度の認定作業においては、医師の診断書、鑑定書が重要な役割を担っています。鑑定書は虚偽の記載に対して罰則があるものの、申請時の診断書と同様に精神科専門医でなくても記載することができます。ですから、故意ではなく「ガス灯症候群」創作に一役買ってしまう可能性を否定できません。
精神科医ならば絶対に騙されないかというとそうではありません。認知症の患者さんは自分ができないことを否定すること多いので、その診断には家族や介護者からの情報によって拠るところが多いのです。患者さんを取り囲む人たちがグルになってかかれば、よほど時間をかけて慎重に診察しないと、お年寄りの正しい言動を作話や妄想として扱ってしまう危険性があります。
入院させて周囲と切り離した環境で専門医が注意深く日常の行動を観察すれば、「ガス灯症候群」を免れますが、こういった例では医療機関ではなく介護施設に入所させられてしまうことが少なくありません。そうなると、それほど正確な情報を入手できるとは限りません。
成年後見制度は後見者を善意の人、あるいは中立的な人であることを前提に成り立っています。しかし、今の世知辛い世の中では、高齢得者の周りにいる人が必ずしも善意の人ばかりではありません。私は、今後さらに高齢者の「ガス灯症候群」を創り出そうとするたくらみが増えることを危惧しています。
私たち精神科医はあらぬ先入観を排除して、虚心坦懐に、より注意深く診察しなければなりません。