先週のコラムで市川海老蔵の傷害事件騒動についてお話ししました。今でもこの話題は絶えることがありませんが、海老蔵に批判的な意見を語るコメンテーターの発言や、私が直接耳にする意見の中に気にかかることがあります。それは海老蔵が世襲の恩恵を受けたボンボンだからだめな人間だという要旨の発言が少なくないことです。
コラムをお読みの方は分かると思いますが、私は事件後の海老蔵の言動に対してよろしくないと言いました。しかし、彼が梨園の御曹司であることを非難するものではありません。むしろ歌舞伎役者の跡取りらしく振舞い続けて欲しいと願うからこそ、先のコラムを書いたのです。
それに、傷害事件と世襲とは直接の因果関係はないと思うのですが、彼らの糾弾は事件そのものから離れて世襲制の糾弾にそれているのです。「その家に生まれなければどんなに努力しても成功しないシステムは不公平でよくない。」とか「誰もが努力すれば認められる自由競争が成り立つ世界でなければいけない。」といった具合にです。何のことはない世襲に対するたんなるやっかみです。
世襲とはその家の地位、財産、職業などを子孫が代々受け継ぐことです。最近、この世襲が取りざたされたのは国会議員に関してでした。小泉元首相が自分の引退と引き換えに次男、進次郎を自分の地盤の後任にごり押ししたことで大いに批判されました。小泉だけではありません。いまや、自民党国会議員の4割が世襲議員というありさまです。
私は議員の世襲には大反対です。なぜならば、私たち国民の生存を預ける政治家はその時代においてもっとも有能な人物になってもらわなければ困るからであります。それに何よりも政治家は職業であってはならないと思います。それぞれがよって立つ本来の仕事をもち、その領域で一定の成果を上げた人物に政治を任せるべきではないでしょうか。
小泉のように生まれてから一度も生業と呼べる仕事に就いたことがなく、政治をすることで喰っている者は政治家とは言わず、政治屋と呼ぶべきです。小泉は政権を担当していた5年余りの間に13億近くの蓄財をしたと聞いております。政治屋の大成功例でしょう。
しかし、政治をすると儲かるということは極めて異常なことではないでしょうか。それは贈賄、口利きが罷り通っていることに他ならないからです。本来、政治とはそれまでの生活を犠牲にして、己を国民のためにささげるという崇高な理念の元に行われなければならないものです。
私がもっとも尊敬する政治家の田中正造は名主の家に生まれながら、投獄もされてすべてを失い、足尾の人々のために一生を捧げました。戦後の自民党で活躍した藤山愛一郎はコンツェルンの跡取りとして生まれながら政治に力を注いで最後にはほとんどの財産を失い、最後の緯度塀政治家と呼ばれました。
井戸塀政治家とは、昔は「政治に手を出したら稼業は傾き、何もかも失って、どんなに金持ちでも最後は井戸と塀しか残らない」と言われたことによります。何も井戸塀しか残らなければいけないとは言いませんが、政治が美味しい商売であることは絶対に許されてはいけないと考えます。
しかし、同じく世襲といっても先祖代々、子孫が一つの仕事を継ぐということはそれほどいけないことなのでしょうか。私は必ずしもそうとは思いません。
海老蔵の場合には、今現在歌舞伎役者がもてはやされる時代だから、「たまたま市川家に生まれただけでいい思いしやがって」という妬みが生まれるのだと思います。これが、潰れかけた町工場の跡取りであったらそんな批判は受けなかったのではないでしょうか。
昔は親の仕事を子が継ぐという世襲はごく普通の社会システムでした。大工の子は大工、刀鍛冶の子は刀鍛冶。多くの職業が一家相伝とされてきました。歌舞伎や舞踊などの芸事、剣術や柔術などの武術も一家相伝されてきました。もっとも一般的で代表的な世襲は農業でありました。先祖代々の田畑と耕筰手法を子々孫々受け継いできたのです。
この世襲が守られているならば、今のような農業従事者の高齢化を招くことはなく、将来の食糧問題ももう少し明るかったのではないでしょうか。ところが、多くの人が農業はつらいばかりで収入が低い、都会に出て働いた方が良い暮らしができると考えて農業の世襲を放棄したのです。
友人から聞いた話ですが、例外はありますが、ほとんどの分野において一つの仕事が隆盛を保てるのは長くて30年だそうです。時代の変化、技術の革新に伴って美味しい職業はめまぐるしいスピードで変わっていきます。
私のクリニックに開業当時から受診されている一人の男性がいます。その方は写真製版の技術者です。開業当時は、あまりに忙しいために健康を害して、私のところにいらっしゃいました。20年たった今、彼は仕事がなく、明日の生活に不安を抱えて受診されています。
世襲制は封建社会の悪弊とされていますが、私は、一家相伝とは一つの技術を絶えることなく後世に伝えていくための重要なシステムであったのではないかと思うのです。
皆が、その時代、その時代に脚光を浴びている職業に殺到していては技術の継承はされません。たまたまもてはやされる時には掃いて捨てるほどの人が殺到しても、時代が変わって努力が報われない不遇の時になれば蜘蛛の子を散らすように人が去ってしまいます。どんな時代にも少なくとも一家に一人は後を継ぐならば技術や芸は絶えることがありません。
先ほどの友人がこうも言います。「皆がやりたがる仕事は早晩ダメになるね。人が見向きもしないことをやっているほうが成功するよ。」
一度、見捨てられた仕事もいつの日か再び世の中から要求されて脚光を浴びる日がくるかもしれません。その時に貴重な技術が絶えてしまっていてはどうしようもないのです。
妬み心を捨て、長い歴史的観点から、今一度「一家相伝」の効用を考え直してみてはいかがでしょうか。
今年一年お付き合いくださいましてありがとうございました。先の見えない不景気に加えて近隣諸国との関係がきな臭くなってまいりましたが、来年が佳い年になるように心から祈念いたします。