投稿日:2010年4月19日|カテゴリ:コラム

「気のもちよう」は私たちがよく耳にする言葉です。悩み、落ち込んで精神的な健康を損ねている人に対して家族や職場の上司や同僚がこう言うのです。「そんなに悩むなよ。それは気もちのもちようだよ。」、「考え方次第だよ。」と。
その結果、私の診察室で絶望的な顔をした患者さんの口から次の言葉が出てきます。「先生、やっぱりこれって気もちのもちようですよね。だから、薬を飲むことをやめました」。前回の診察時にはだいぶ回復してきたように見えたのに、「気のもちよう」の一言で病状が逆戻りです。

皆が安易に口にする「気のもちよう」という言葉は私たち精神科医療に携わる人間にとってとても有害な言葉です。服薬の中断までいかなくても、その言葉だけで病気の回復を遅らせたり、悪化させるのに十分な効果があります。なぜならば、精神的に参っている人に対して、さらに追い打ちをかけて不可能な作業を要求するからです。
自分の気もちは自分では操作できません。だから私たちは身体と同様に心の病気になるのです。もし自分の気持ちを意のままに操作できるのならば、誰も病気になんかなりません。私たちの診察室を訪れる人は皆、受診する前に、あれやこれや考え方を変えてみて、「気を軽くもとう」と悪戦苦闘しています。それでもどうにもならないから意を決して精神科の門を叩いたのです。

「気のもちよう」の「気」とは感情の一つ、気分のことを指していると考えられます。気分や意欲は大脳辺縁系と呼ばれる発生学的に古い大脳皮質(原皮質、古皮質)によって担われています。これに対して、「考え方次第」の考える、すなわち思考という機能は、人間において特異に発達した新しい大脳皮質(新皮質)で行われます。
ヒトと他の動物との最大の相違点は新皮質の発達度合いにあると言われています。このために、ヒトはどうしても新皮質の力を過信しがちです。「自分たちは進化の過程の頂点にいる。他の動物とはケタはずれの能力を持っている。その優越性はひとえに新皮質の発達に因る。現に私たちは新皮質の働きで月にも降り立つことができたではないか。いつの日か火星にも行けるだろう。新皮質で解決できないことはない。」と思いたいのです。
確かに、多くの天才たちの思考の積み重ねで、やがては宇宙の成り立ちを解明できる日が来るかもしれません。しかし、大脳新皮質の働きは脳全体の活動の中ではほんの一部でしかありません。私たちが生きていくために必要なことのほとんどは古い脳によってコントロールされています。力関係から見ても、新しいの脳が古い脳によって翻弄されることはあっても、新しい脳が古い脳に及ぼす影響力はたかが知れたものです。
新しい脳の働き(考え方)次第で古い脳の働き(意欲や感情)を意のままにコントロールできると考えることこそが、新しい脳の愚かなる錯覚であり驕りです。それができるのは神とお釈迦様しかありません。その上、そんなことができる神様は、キリスト教徒やイスラム教徒が崇拝する絶対神だけです。
現在、地球上ではこの神が覇権を握っているので、神は全知全能で不可能はないと考えがちですが、その他多くの神々はそれほど知に偏在してはいません。スケベな古代ギリシャの神は横恋慕して人妻を盗みます。日本の神は気に入らないことがあると岩穴に引きこもってしまいます。多くの神々は新皮質で古い皮質を統制することができないのです。
こういう神々の方が精神機能の本質をよく示しているように思います。絶対神が幅を利かすようになったことが、我々人間を分不相応に自惚れさせる原因なのかもしれません。
お釈迦さまも最初のうちは古い脳にさんざん引きずりまわされます。大変な修行の末に悟りを開き、やっとのことで新皮質と古い皮質との間でうまく折り合いつけることができるようになったのです。悟りとは非凡な人間が一途にそのことだけを目指して奮励努力して、やっと行き着くことができる境地です。私たち凡人が、他人から「気のもちよう」と一言言われたくらいで辿り着けるはずがありません。
心が疲弊した方が不可能な作業にエネルギーを費やせば、心のエネルギーがより一層消耗してしまうのは当然のことです。ですから、感情や意欲の不調を自分の力で何とかしようなどとは思わないでいただきたい。ましてや、自分自身ができもしないのに、他人に対して「気のもちよう」とか「考え方次第」などと無責任なアドバイスをすることだけは厳に慎むべきです。

まずは自分たちが自然を創ったのではなく、私たちが自然の極々々々々一部にしかすぎないという当たり前のことを理解しましょう。そうすれば、本能、意欲、気分などが自分の意のままにコントロールできないことを素直に認められるのではないでしょうか。
私たちの力で台風や地震や津波をコントロールできないのと同じように、自分たちの心も自由にはならないのです。自然現象はねじ伏せようとせずに、いち早く避難するか、じっと通り過ぎるのを待つしかありません。
自然現象の一つである感情の落ち込みはいつか必ず回復します。出口のないトンネルはないのですから。むやみに非現実的な目標に向かって動き回ると、かえって出口から遠ざかってしまうことになりかねません。
さて残念ながら、瞬時に目の前を明るくするような魔法の薬はありません。しかし、薬は確実にトンネルの長さを短くしてくれます。ゆっくりと休息して適切な薬を上手に利用して、その後は気分がもち上がってくるのを焦らないで待ちましょう。急がば回れ。その方が早く心が回復します。決して「気」を操作しようなどとしないことです。

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