四国、九州から北上中であった桜前線がこのところの寒さで暫し足踏み状態でしたが、日曜日になって東京もお花見まっ盛りになりました。
桜は山桜、大島桜など600を超える品種があります。この中で現在、日本を代表する桜と言えば「ソメイヨシノ」をおいて他にはありません。このソメイヨシノは意外にも、明治初期に東京の染井村(現在の豊島区駒込)の植木職人が人為的に作り出した一代雑種です。このために同一個体内で受粉して結実した種が発芽することはありません。
したがって、全国各地で日本国民の目を楽しませてくれるソメイヨシノは、すべて人の手によって接ぎ木で増やされたものです。日本国内に限らず、ワシントンのポトマック河畔の桜を含めて、すべてのソメイヨシノは、元々一本のソメイヨシノのクローンなのです。
花見酒に浮かれ騒ぐわりに、こういった事実はあまり知られていません。JR駒込駅を出てすぐ右手の小さな公園に「染井吉野発祥の地」という碑が建てられていますが、通りすがりに、この碑に足を止める人はめったにありません。それどころか、千鳥ヶ淵辺りで「桜はなんたってソメイヨシノだ!」などと怪気炎をあげた帰りにこの碑の脇で立ち小便する輩さえいます。
クローン種の宿命と言えますが、ソメイヨシノは老齢化が早いのです。また、元は1本の木ですから、いつの日か全国のソメイヨシノが一斉に枯れてしまう可能性も危惧されています。一代限りの命を世界中に輝かせているソメイヨシノは、種の運命そのものが、まさに桜を象徴しているように思います。
「花は桜木、人は武士」。日本人が桜の花をこよなく愛する最大の理由は「花七日」と言われるように、短い命を狂わんばかりに咲き誇る、その華やかな咲き方と潔い散り方にあると言われます。桜の花の咲き方に、華々しい活躍をしながらも連綿と生に執着せずに常に死を覚悟した生き方をよしとする、武士道精神に相通じるものを感じとるからです。つまり、桜は「男伊達」を象徴する花と言えます。
それでは、女性の美しさ、たおやかさはどの花に喩えられるのでしょう。白居易が楊貴妃の美しさを太液芙蓉(たいえきふよう)と喩えたように、蓮の花は昔から美人を表す言葉として用いられています。また「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」とは美女を指すあまりにも有名な表現です。
「高嶺の花」という言葉で言われる花は高山に咲く山百合を指しているのでしょう。「いずれ菖蒲(あやめ)か杜若(かきつばた)」と言いますから菖蒲や杜若も美人の象徴と言えます。また、蘭の花に女盛りの美女を連想するのは私だけではないでしょうし、相手を薔薇の花に喩えて口説いた経験をお持ちの男性諸氏も少なくないはずです。
外観よりもその色香で人を魅了する金木犀、銀木犀も女性の魅力を存分に表わしています。また、花ではありませんが、柳はその細さ、しなやかさから柳眉(りゅうび)とか柳腰(やなぎごし)と言って、美人のシンボルの一つだと言えます。
こうして美女に喩えられる花を挙げればきりがありません。つまり、女性の美しさは十人十色それぞれの美しさがあると言えるのではないでしょうか。だからこそ、我々男子は百花繚乱の景を楽しむことができるというものです。実際に、最近の日本女性は自分の個性を知って、各人各様の生き方やおしゃれをするようになって、輝きを増していると思います。
一方我々男性陣はどうでしょう。女性のように化粧をしたり、エステに通ったりして外見の美しさを追求するようになりましたが、凛とした桜の美しさが見当たらなくなったのではないでしょうか。
むしろ、人の役に立ってもいないのに、いつまでも己の地位や財産に執着する人が増えているように思います。そういう人に限って「尊敬する人は坂本竜馬」などとぬけぬけと言います。
人間は自分にないものに憧れをもちます。ですから、自分が桜や竜馬になれないからこそ、桜や竜馬を愛するのかもしれません。しかし、ただ他人事のように拍手喝采するだけではなく、私たち一人一人が、たとえ果たせずとも、男らしく美しい生き方を目指したいものです。そして凋落の一途をたどる今の日本にとって、桜木精神の傑出したリーダーの出現が待ち望まれるところです。
私はこのコラムで小泉元首相の政策について終始非難してきました。しかし、彼が国民を熱狂させるだけの人間的な魅力を持っていたことは認めざるを得ません。天性の「可愛げ」と国民からのラブコールを振り切って退陣した、あの潔さは、最近の政治家の中で出色だと思います。最後の最後に次男、進次郎を接ぎ木しさえしなければ、本当に錦上に花を添えたでしょう。