昨年は友人の引越しの手伝いで大忙しの正月でしたが、今年は元日を除いて自宅で穏やかにごしました。天候に恵まれた正月であったのにもったいないと思われるかもしれませんが、私としては幸せを実感する正月でした。
元日は氏神様に初詣と先祖の墓参りをした後、実家の母親のもとへ年賀の挨拶に行きました。昨年は体調を崩して病院で正月を迎えた母ですが、今年は無事に87回目の正月を自宅で迎えることができました。母がテーブルの上に朝配達された年賀状を並べて整理している姿を見て、よくここまで回復してくれたと感謝せずにはいられませんでした。
母と同じマンションに住む兄夫婦も元気な顔を見せてくれました。昨年は義姉も大病をして手術を受けましたが、その義姉もすっかり元通りの笑顔で出迎えてくれました。私の胆嚢摘出を初め、昨年我が家は病気の話題が多かったのですが、好運に恵まれて、皆なんとか回復することができました。皆が元気に顔を揃えられたことだけで、本当におめでたい元日だと思います。
元日の夜は家族全員が顔を揃えて賑やかな夕餉を摂り、甥を交えて麻雀をしましたが、2日からは皆元気に各人各様の活動に戻りました。家内は所属クラブの新年杯に出場するために早朝からゴルフ。子供たちもマイペースに正月を楽しみ(息子は少々風邪気味でしたが)、私は愛する猫3匹に囲まれて、暖房の効いた部屋でぬくぬくと過ごしました。
家内が営んでいる眼科クリニックの年末年始休みは大晦日と正月三が日だけです。元日はどこのゴルフ場も休場ですから、2日と3日は大好きなゴルフを心おきなくできる1年の中でも数少ない日なのです。今年は幸い天候にも恵まれて楽しい2日間を過ごしたようです。たまの休みだと言うのにのんびりした時間をとらずに、真冬の早朝にゴルフに行く家内のバイタリティーには感心します。
子供たちが家にくすぶっていないことは当然でしょう。私も2人と同じ年の頃は何かの口実をつけては、彼女や友人と集まって街へくりだしたものです。家に引きこもりでもされたら、それこそ心配でたまりません。
家族がそれぞれ楽しく活動できるという状況は各人健康で、その人生が充実して、家族が大きな問題を抱えていない証拠です。誰か一人でも病気に倒れていれば、看病のために居残らなければなりませんし、難問を抱えていれば、眉間に皺寄せて鳩首しなければなりません。
私は本来蟄居して、このコラムを書き貯める計画であったのですが、最近我が家における、私の日々の業務に加わった「今日のお言葉」の執筆にかなりのエネルギーを消費してしまうために、コラムの方にまでなかなか手が回りませんでした。
しかも、たっぷりと時間があるという気の緩みからでしょうか、集中力を欠いて筆が進みません。少し書いては猫と戯れ。また少し書いては猫に遊んでもらう。猫に飽きられるとごろ寝しながらテレビを観る。コマーシャルの合間に原稿を書く。こんな具合ですから計画は半分ほども達成できませんでした。確かに予定は未定にして確定にあらずです。
テレビと言えば、お正月のテレビ番組はよくもまあこれほど面白くない番組を作ることができると逆に感心させられるほど碌な番組がありません。どのチャンネルを回しても同じような顔触れのタレントがわあわあ騒いでいるだけです。あれでギャラが貰えるのですから、一度芸能界に足を突っ込んだらやめられないのがよく分かります。
それでも中には過去に見逃したドラマの特集再放送などがあり、金のかかっていないこういう番組の方がよっぽど楽しめました。私はこういったよほど観たいと思う番組がない時にはケーブルテレビのアニマルプラネットというチャンネルを見ることにしています。
こんなのんびりとした生活をしていると麻生さんのように「世間知らずの高枕」*1になってしまうと思われるでしょうが、そうではありません。大好きな動物の映像を観ていてもそう能天気ではいられません。
動物番組では人間の飽くなき欲求の犠牲になって、多くの生き物たちが絶滅の危機に向かっている現実を知らされます。くだらない番組の合間に少しだけ観ることができる報道からは、職と住居を一挙に失った非正規雇用派遣労働者が寒空の下、炊き出しを求めて列をなす姿を目にします。海の向こうパレスチナでは数千人の一般市民が砲火の犠牲になっています。
自分自身が暖かい部屋で猫に腕枕を提供しながら、ごろごろしているからこそ、余計に自分の今の平和な生活が当たり前のものではなく、とてつもない幸運に恵まれている結果であると思い知らされるのです。日頃、日常の業務に追われていると、かえって気がつかないことかもしれません。
世間ではしばしば「平等」が声高に叫ばれますが、それは絵に描いた餅であり、現実はすべてが不平等です。背の高い親から生まれた子は生まれつき背が高くなることを保証されています。身長に限らず、殆どの能力はその大部分が先天的に決定されています。男と女だって絶対に平等に造られてはいません。生まれつき平等でないものを平等であると言い張ることは牽強付会*2な論法と言えるのではないでしょうか。
「本来すべてのものは不平等である」という現実を虚心坦懐*3に認めた上で、その不平等な存在がどうすれば不公平にならないように共存できるのかを考えることこそがより多くの人々の幸せを見つける道だと思います。
日本は長らく人々の生活に儒教の教えが深く浸透していました。私が幼少のころは両親や祖父母からまず「ありがとう」と「ごめんなさい」という言葉を覚えこまされました。また、もう少し道理が分かる年頃になってからは「分をわきまえなさい」と繰り返し注意を受けて育ちました。
ところが現在の我が国には、感謝の念を失い、自省することを知らず他人を非難するばかり、止まることを知らぬ欲求に支配された人々が横行跋扈*4しています。いつからこんな世の中になってしまったのでしょう。
略奪によって己の欲するものを手に入れることを「アメリカンドリーム」と名付けて美化する、強欲なアメリカ的な考え方が我が国を席巻するようになったのはそう遠い過去ではありません。今からでも遅くはありませんから「グローバル」などというカタカナ言葉に振り回されないで、自分たちの因って立つ漢字文化を掘り起こして、地に足の着いた日本人らしい生活を取り戻しましょう。
知足安分*5。猫と暖かい正月を過ごせることに感謝。
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*1世間知らずの高枕:世間の事情に疎いばかりでなく、世間のことを知ろうともせずに暮らす者への皮肉のことば。
*2牽強付会:自分の都合のよいように、強引に理屈をこじつけること。
*3虚心坦懐:心にわだかまりがなく、平静にことに臨むこと。また、そうしたさま。
*4横行跋扈:のさばってわがまま勝手に振る舞うこと。
*5知足安分:「足るを知り分に安んず。」と訓読みをすることもある。高望みをせず、自分の境遇に満足すること。分をわきまえて欲をかかないこと。