これまで3回にわたってうつ病とその周辺の精神障害についてお話をしてきました。ここまでの話を読んで、「うつ、うつと言うけれど、じゃ一体躁はどうなってしまったんだい」という疑問をお持ちになった方がいらっしゃると思います。こういう疑問をもたれる方はかなり精神医学に造詣が深い方です。
うつ病は大きな分類からいうと、気分(感情)障害(Mood〔Affective〕disorders)という一群の精神障害の中の一つです。感情や意欲が標準的なレベルより低下してしまった状態がうつ状態です。したがって、感情や意欲のレベルが標準以上に高まってしまった躁状態という病的な状態があります。昔は気分障害を代表する病名としては「うつ病(Depression)」という言葉よりも「躁うつ病(Manic-Depressive Illness)」という言葉の方がよく使われていました。
躁病(Mania)ではうつ病の反対に気分が高揚して意欲が亢進します。高揚した、開放的な、またはいらいらした気分が数日以上持続します。気力と活動性が亢進して著しい健康感と心身両面の好調さを感じます。社交性が増大して、多弁になり、過度になれなれしい態度になります。性的な欲求が高まり、眠りはあまり取らないでも元気で、次から次へと観念が湧いて出て、本人は頭の回転が速くなったと感じます。しかし、周囲から客観的に見ると注意力が散漫で一つのことをじっくりと成し遂げることができない状態です。
重症になると誇大的あるいは過度に楽観的になって、実現不可能な計画に熱中したり、浪費を重ねてサラ金から多額の借金をしたり、過剰に性的な行動に走ったり、攻撃的になって、やたらと他人とトラブルを引き起こしたりします。サラリーマンの場合には上司やお得意先を相手に説教したり、喧嘩をしてくびになることもあります。
このような躁病の時期と、逆に元気がなくなるうつ病の時期をくり返すのが典型的な躁うつ病です。現在の診断法の分類でいうと双極性感情障害(Bipolar affective disorder)と言います。これに対して、うつ病だけをくり返すあるいは持続するタイプを単極性感情障害(Unipolar affective disorder)と言います。
この双極性の「躁うつ病」は私が学生時代はポピュラーだったのですが、徐々にその名前を聞く機会が減っていきました。それに代わって増えてきたのが単極性の「うつ病」です。つまり、躁病を見る機会が減ったのです。
一時期は、「もう躁うつ病はいないのではないか」とまで言われたほどでした。反比例して通常の抗うつ薬でなかなかよくならない、だらだらと続く軽症のうつ病がやたらと増えたと言われてきました。
本当に躁うつ病はなくなってしまったのでしょうか。実はそうではありませんでした。アメリカ精神医学会による診断基準、DSM-ⅣTRでは双極性感情障害を大きくⅠ型とⅡ型の二つに分類しています。
Ⅰ型は躁病のエピソードがはっきりしているグループです。これに対してⅡ型はうつ病相ははっきりしているのですが、躁病相は軽い躁状態にとどまって目立った異常行動を示さないグループです。
軽躁状態は気分が爽快でやる気がみなぎって頭の回転も速く社交性が高まり、仕事も趣味のこともすべてに対して満足感を持って臨むことができます。かといって、本当の躁状態のように社会規範から逸脱することもありませんから、本人にとってものすごく好都合の状態です。周囲の人からも活動的としか思われないことが少なくありません。
このⅡ型の双極性感情障害で軽躁状態を過去に頻回に経験したり、軽躁状態が長期間続いたりした例では、本人も周囲もこの軽躁状態が本来の状態であると勘違いしてしまいます。エネルギッシュでまめで仕事も遊びもできる人と捉えられているのです。この人が軽躁状態を脱して、普通の状態になると、相対的にうつ状態になったかのように感じられます。ましてや本当のうつ状態になった場合にはその落差は相当なものになります。
従来、安易に「うつ病」と診断していた症例の経過を注意深く検討してみると、実はこの双極Ⅱ型障害ではなかろうかと思われるケースが想像以上に多いことが分かってきました。
特に、頻回にうつ病をくり返す例や通常の抗うつ薬があまり効かない例の中に相当数の双極Ⅱ型障害が単極性の感情障害である「うつ病」と誤診されていたのでないかとの反省がなされるようになりました。
双極性感情障害に対してはSSRIをはじめとする抗うつ薬があまり効を奏しません。抗うつ薬とは全然別の感情調整薬というグループの薬による治療が有効とされています。実際に頻回にうつ病相をくり返す患者さんや抗うつ薬による治療で難治の患者さんが感情調整薬でよくなることが少なくありません。
さらに最近は、過去に軽躁状態のエピソードが1回もみられないうつ病の患者さんであっても、いろいろな指標をチェックすることによって、将来躁病あるいは軽躁状態を呈する可能性が高い感情障害のグループに対して「双極スペクトラム障害(Bipolar spectrum disorder)」という病名をつける動きもあります。こう考えると躁うつ病の数は相当増える可能性があります。
世間に「うつ」が溢れて、安直に抗うつ薬治療が行われ、しかもなかなかよくならずに、だらだらとうつ状態が続く症例が増えている現在、双極性感情障害(躁うつ病)の存在をもう一度見直す必要に迫られていると考えます。
先ほど述べたように「うつ病」と「躁うつ病」とでは治療法が違ってきます。両者の鑑別を早期にすれば、遷延するうつ状態の患者さんを減らすことができるかもしれません。
一時期、「うつ病」の増加に圧倒されて、めっきり姿を消したと思われていた「躁うつ病」が復権した感があります。自称、他称の「うつ」の人々を再検討すれば、かなりの数の「躁うつ病」が発見されるのではないでしょうか。
私も明日から新しい視点で診療に当たりたいと思っています。