一昔前は声をひそめてしゃべっていた「うつ」という言葉がおおっぴらに語られるようになりました。また、新聞をはじめ各種メディアでも「うつ」という言葉が頻繁に飛び交うようになりました。
この理由は3つあります。第1は私たち精神科医たちの長年の努力によって「うつ病」が啓蒙されてきたことです。この結果、精神病の中でも特にうつ病に対する偏見が薄れてきて、訳の分からないいわゆる「きちがい」ではなくて、誰でもかかる可能性のある脳の不健康な状態であるという考え方が一般の人にも理解されてきました。
第2は自殺が社会問題としてクローズアップされてきたことです。近年我が国の自殺者の増加は世界的に見て突出しています。一時期ほぼ同数であった交通事故死亡者数(現在は年間1万人を割った)をはるかに上回って年間3万人を超えています。
特に中高年の自殺者の増加が目立って、この自殺の原因の75%以上が「うつ病」とも言われています。国も自殺の問題を軽視できなくなり、昨年から国家プロジェクトとして「自殺対策」、「うつ病対策」を考えるようになりました。
第3は「うつ」の増加です。啓蒙活動によって「うつ病=きちがい」というイメージは払拭されたのですが、本当に正しく理解されているかというと、そうではありません。「ゆううつ=うつ病」という安直な理解のままに「うつ」という言葉が使われています。
正しく使われていないことが多いために、以前このコラムで書いた「自律神経失調症」や「神経衰弱」などといった病名と同じようなあやふやさをもつことになりました。このようにうつ病が中途半端に啓蒙されたために「うつ」という言葉が独り歩きして「うつ」と称する(自称、他称を問わず)人が猛烈に増えたのです。
それでは本当の「うつ病」と「うつ病もどき」とはどのような違いがあるのでしょうか。この話をするためには狭義(本当)の「うつ病」というものを説明しておかなければなりません。
最初に、「うつ病」の定義についてお話をしたいと思いますが、この話をするにあたって先ず述べておかなければならないことがあります。実はメンタル系の病気の治療にあたる医師の間でも「うつ病」の定義に関して混乱があるのです。
私が精神医学を初めて学んだ頃は、わが国はドイツ精神医学が主流でした。この流れをくむ従来からの診断法とその後台頭して、現在主流となっているアメリカ精神医学の診断法はかなり異なっています。このために、日本語で「うつ病」と言っても必ずしも同じ病態をさすとは限らないのです。
ドイツ精神医学に基いた従来からの診断は現在の症状に加えて既往歴、家族歴、病前性格、経過などを総合的に判断して診断します。しかもそれぞれの項目の重み付けは診断する医師の判断に任されていました。
ある場合は現在の症状に重きをおいて判断しますし、別な場合にはこれまでの既往や経過に注目して判断します。現在の症状がそれほど重たくなくても、病前性格を重要視して診断することもあります。
したがって、臨床経験など、診断する医師の技量によって診断名が異なってくることがありました。また、国や風土の違いで診断が違ってきてしまうために国際的に比較検討する場合に不都合でした。何よりも主観的であいまい、科学的でないとの批判から逃れることができませんでした。
また、精神科医療は医師、看護師、薬剤師などの医療人以外に臨床心理士やソシアルワーカーなどの福祉関係の人がかかわることが多い診療科です。このために専門的に医学を学んでいない人とも共通の認識を持つことが要求されました。
こういう理由から、アメリカ精神医学会が、アメリカ人らしい発想で、診断のマニュアル化を進め、1952年にDSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorder)という診断マニュアルが作られました。
この診断法は病因論などにはあまり踏み込まずに精神症状のみを論理的な推察と統計学的要素を取り入れて分類したことにより、診断基準を明確にし、今まで医師の主観的な判断に頼っていた診断をより客観的な判断によるようにした点や、技量の差異による診断の違いを小さくした点で評価されました。
1980年に改訂された第3版DSM-Ⅲあたりから急速に世界中に普及されてわが国においても取り上げられるようになりました。現在は2000年に改訂されたDSM-Ⅳ-TRが使われていますが、2011年にDSM-Ⅴが出される予定です。
しかし、DSMは従来までの診断法に比べて革命的なアプローチをもたらしたと評価される一方、診断基準の内容や疾患分類の妥当性については疑問視する声も少なくありません。また、政治的・経済的な圧力に左右された経緯があることから純医学的な概念ではないという指摘もあります。
現在、もっと国際的広く使用されている診断基準にICDがあります。ICDは「疾病および関連保険問題の国際統計分類(International Statistical Classification of Disease and Related Health Problem)」の略で世界保健機構(WHO)によって公表された分類です。
ICDは当初は国際死因分類として1900年に国際統計協会により制定されました。以降10年ごとに見直しがされて、第7版からは死因だけでなく疾病の分類が加えられ、医療機関における医療記録の管理にも使用されるようになりました。現在の最新版は1990年、第43回世界保健総会で採択された第10版で、ICD-10と呼ばれています。
このICD-10による診断もDSMの流れを踏襲してマニュアル化されています。精神科領域の項目はかなりDSMと重なります。
ここでこのICD-10による「うつ病エピソード」の診断基準を示してみます。
〔特徴的な症状〕
1.抑うつ気分
2.興味・喜びの喪失
3.活動性の減退
〔他の一般的な症状〕
1.集中力、注意力の減退
2.自己評価と自信の低下
3.罪責感と無価値感
4.将来に対する希望のない悲観的な見方
5.自傷あるいは自殺の観念や行為
6.睡眠障害
7.食欲不振
ICD-10では軽症と言えども〔特徴的な症状〕のうち少なくとも2つ以上、さらに〔他の一般的な症状〕の中から少なくとも2つ以上の存在が認められなければならないとされています。そしてこういった症状が2週間以上持続することが必要条件です。
こういうマニュアル化された診断基準は誰でも診断ができて、共通の概念で話ができるという点ではとても優れているのですが、○×式の安直なやりかたなので診断の質が低下します。
またこういったマニュアル化はいかにも客観的で科学的であるかのように見せかけられますが、一つ一つの症状項目があるかないかを判断するためには、やはり診断者の一定レベル以上の技量が要求されます。ですから、いくらマニュアル化しても診断の入り口はどうしても主観的なあいまいさが残るのです。
マニュアル化された診断法が必ずしも優れているわけではないことはお分かりいただけたかと思いますが、それでも患者も医師、看護師、薬剤師も福祉関係者も共通の認識で話ができるのであれば、ICDに統一して話を進めたほうがよいでしょう。ところがそうもいかない別の事情があるのです。
我が国の保険医療では厚労省が認めた病名とそれに適用とみなされた薬剤や治療法しか適用できないことになっています。この保険診療で使用される診断名は従来型の診断法による診断名なのです。
したがって、我が国では1つの精神疾患の診断に従来型の診断法による診断名とICD-10で代表される新しいマニュアル化されて診断法による診断名の二つが並存するのです。
実際にうつ病を診療する場合、診療報酬を請求するレセプトには従来型の診断名を記載しなければなりませんが、自立支援法申請時の診断書にはICD-10による疾病コードの記号と数字を記載しなければならないのです。
あまり訓練されていない医師は新しい方式の診断を無理矢理従来型の診断にはめ込んで病名をつけざるを得ません。また、熟練した医師でさえ実践的な治療に即した保険向けの病名をつけざるを得ないのです。
このことも「うつ」を取り巻く状況を混乱させて、「うつ」を増やしている大きな要因のひとつなのです。
精神科医の間でもこれだけの混乱があります。ここに患者さんの自己診断や他の一般科医たちの精神科領域への参入があいまって「うつ」は訳の分からない状態になってしまっています。次回、そういった点についてお話したいと思います。