投稿日:2007年12月10日|カテゴリ:コラム

救急車で搬送される患者や産婦が病院での受け入れを次々と断られて、長時間町の中をさまよう。このところ、こういった救急難民に関する報道が後を絶ちません。今日の日本の医療の悲惨な現実をものがたる事件です。
ちょっと前まではこういった事件がおこると、マスコミはこぞって受け入れを断った医療機関に対する非難の論調に終始していました。医療関係者は本当は言いたいことがあるのに、少しでも反駁しようものならば、さらに数倍の非難になって返ってくることを恐れて、緘黙の態度をとってきました。飽きっぽく、無責任で、権力に迎合するマスコミの関心が早く他のテーマに移ってくれることを祈りながら。
ところが最近になってマスコミの論調が少しだけ変化を見せはじめました。こういう事件の大きな要因が受け入れを断る個々の医療機関や医師のエゴや怠慢にあるのではなく、急速に崩壊してしまった我が国の医療システムにあることにも触れるようになりました。もはや、病院にだけ責任を押し付けているだけでは覆い隠せないほどの社会矛盾が露呈してきたからです。
長年にわたって政府が、そして政府に誘導されたマスコミが推し進めてきた医療関係者いじめ、そしてそれは患者いじめにつながる政策(大半の人々は気付いていこなかったのですが)に、日本の医療機関は疲弊しきっていました。
そこへとどめを刺したのが小泉政権によるあからさまな経済優先、弱者切捨て政策です。その象徴が「自立支援法の制定」でしょう。このまったく詐欺としか言いようのない名前の悪法については後日、詳しく述べたいと思います。
ともかく、小泉、竹中は利益追求を至上目的とした市場経済論理を、利潤とはまったくそぐわない社会福祉にまで適用したのです。この最後の一撃によって我が国の医療は壊滅的な被害を被って、加速度的に崩壊したのです。
その目的は、役人の天下り先企業を儲けさせるために垂れ流し続けてきた公共事業費をはじめ、歴代の政府が取り続けた放漫経営による、天文学的な国家財政破綻の立て替えであり、今後急速に進む高齢化社会到来によるさらなる財政負担増に対する穴埋めだという。
これだけだって相当に腹立たしい。さんざん飲み食いしたあげくに、「金がないから払えない。だけどもっと食わせないとお前らも道連れにしてやるからな」と居直っている無銭飲食者みたいなものです。しかし、「本当に金がないなら、自分達が痛いおもいをするのもやむをえない」と我慢強くて寛容な日本人の国民性を利用して、感謝するどころか、この機に乗じ、さらに沈みかかった船から残り少ない金品を売り払って(主としてアメリカに)己の利を上げようとする思惑が見えてしまうのは私だけでしょうか。
私はこのコラムで何度となく竹中平蔵と小泉純一郎を悪者呼ばわりしてきました。彼らは稀代のペテン師であり現在社会の混乱を招いた張本人だと思っているからです。しかし、彼らを大喝采で称えたのは私たち国民です。意味ありげでまったく意味のないワンキャッチコピーに狂喜乱舞して、「純ちゃん」などと追いかけまわしていたのは私たち国民なのです。
国民一人一人が己の利や、まやかしの言葉に左右されずに、自分達の国家、そして自分達の孫子の代の国家のことを真剣に考える力を持たなければ、民主主義は機能しません。先の郵政民営化総選挙のように衆愚政治に堕してしまうのです。
我が国の医療崩壊も小泉をはじめ歴代政権と、国民という実態を置き去りにした、空の弁当箱のような「国家」というものの威信、繁栄だけを追及してきた、鵺のように不気味な官僚組織だけで達成した業績ではありません。それをよしとしてきた国民一人一人に帰するところも大きいのではないでしょうか。

我が国の医療システムの崩壊をもっとも敏感に反映しているのが小児科医、産科医の急激な減少です。たらい回しされる救急難民の多くが妊産婦や小児であることからもすぐに分かるはずです。実際、日本中の病院から産科医や小児科医が逃げ出して、産科や小児科を閉鎖せざるを得ない病院が後を絶ちません。
この背景には「労多くして益少なし」の経済論理も働いています。これまでの保健医療制度では、小児科医や産科医は寿命を削るような過酷な勤務を強いられるにもかかわらず、それに見合った報酬を与えられてきませんでした。
政府もさすがに慌てて、急遽来年度から周産期医療や小児科医療の保険点数を上げるもようです。つまり、美味しそうな餌をちらつかせて小児科医や産科医を呼び戻そうという、これまで連綿と厚労省がとり続けてきた「撒き餌」作戦です。
しかし、本当に役人の思惑通りに、餌に釣られて小児科医や産科医が戻ってくるでしょうか。私はそうは思いません。私たち医師にとっても他の方々と同様にお金は大事です。しかし多くの医師は経済論理だけで動いているのではありません(どの分野にも必ず例外はいますが)。
三重県のある市では産科医が一人もいなくなってしまう事態に年棒5520万円という通常の医師の年収の4〜5倍という破格の高給で一人の産科医を確保しました。しかし、この医師はわずか1年で辞めてしまいました。
辞職の理由は病院の分娩室の隣の部屋に住み込んで24時間体制での診療。休日は年末の2日間だけという奴隷並みの過酷な労働それ自体と、それにともなう過労から起こる可能性の高い医療事故への不安、さらには高収入に対する周囲からのねたみやそねみの声に耐えかねたと聞きます。餌を撒いただけで解決する問題ではないのです。

戦後の急速な経済復興による食糧事情の安定、昭和36年に達成することができた国民皆保険制度、医学および医学関連の科学技術の進歩によって、日本は世界トップクラスの高度医療を国民にあまねく提供できる国になりました。
それに対してアメリカは一部のお金持ちは世界最先端の医療を享受することができますが、多くの低所得者層は日本ではごく当たり前に受けることのできる医療、例えば喘息や怪我をした傷を縫合することさえも受けることができないのです。そういう悲惨な医療の現状を訴えたのがマイケル・ムーア監督作のドキュメンタリー映画「Sicko」です。すでにご紹介しました。
一方、食糧に困らず、優秀な医療を日常的に受けることに慣れてしまった日本では、一般の人々が医療に対する、いや健康に生きていられることに対する感謝の念を失ってしまったようです。
「病気は治って当たり前」、「思うように治らなかったら医療ミスがあったのではないか」と考えるようになってきているように思えてなりません。産科医が姿を消した背景には日本人が生きていることに対する感謝を忘れてしまったことがあるように思います。
お産は本来大変危険な命がけの営みなのです。古い映画を観ると、出産が無事に終了した場面では、待合室でやきもきしていた父親が「母子ともに無事ですよ」と告げられると、小躍りして喜んで、担当の医師や看護師に「ありがとうございます」を繰り返すシーンを目にしませんか。しかし、最近は「お金を払ったんだから、無事に生まれて当たり前」「何かあったらただじゃおかないぞ」という方が増えてきたようです。
どんなに臓器移植ができるような時代になっても、お産が母体と赤ちゃん、二人にとって命がけの作業であることには変わりがないのです。しかし、一般の人はどうもそうは考えていらっしゃらないようです。無事に生まれて当たり前。そんな風潮になってきているようです。
昨年、福島県で癒着性の前置胎盤というきわめて難しいお産の結果、妊婦が死亡した件で、担当した産科医が刑事告発され、さらし者のように報道陣の前で手錠をかけられて逮捕されました。私たち医師が考えれば、癒着性の前置胎盤の場合は、十分に危険性を考慮して対策を準備していても不幸な結果が起こりうるのです。これで逮捕されたのでは、産科医が逃げ出すのも当たり前です。いくら保険点数の撒き餌をしたって産科医を志望する若手医師はいなくなります。
逆に、私たち医師、看護師は「ありがとう」の一言があれば、かなりの疲れも吹っ飛ぶものです。それほどの高収入で報われなくたってがんばれるものなのです。
先日、ある会合で若い女性に「先生、覚えていらっしゃいますか」と声をかけられました。その女性は大学生の頃に私のクリニックを受診された方で、もう4年ほどお会いしていいなかったのですが、すぐに診察室でのやりとりを想い出しました。
「あの時は八方塞がりで苦しくて、大学をやめようと考えていました。でも、あの時に先生に言われた一言ではっと自分をとりもどして、頑張れました。無事に卒業して、今は社会人として充実した日を送っています。ありがとうございました。」
涙腺の弱い私は泣きそうになりました。何日かたった今でもなんだか温かい心でいられます。
直接、生死に結びつく結果が出る機会が少ない私の科でもこんなものです。日夜、生死を決するような修羅場の医療を担っている多くの医師や看護師たちは収入だけではなく、「ありがとう」という一言のねぎらいを求めているのです。
ところで、国民が医療に対して感謝の言葉を忘れて、訴訟の機会をうかがうようになった原因は豊かさによるぼけだけが原因ではありません。一部医師によるとんでもない医療ミスやこころない医療にもその責を負うところは多いと思います。
しかし、もっとも糾弾されなければならないのは、自分達が招いた根本的な医療制度の不備を、「算術の医者vs被害者である患者」という単純な構図にすりかえて、国民の目をごまかし続けてきた国家であり、その片棒を担ぎ続けたマスコミだと思います。つまり、国民の医療に対する信頼関係を壊して、医師や看護師を臨床の現場から逃げ出させたことについても政府の政策にその大元があるのです。教育の崩壊と同様です。

国家が国民に対して経済的な豊かさを提供することはとても大事なことです。しかし、はるかそれ以前の課題として「国民に対する安全で健康な生活の保障」がなければならないことは自明のことではないでしょうか。
来年度も国は医療機関の収入を減らして、一方では国民の医療費負担を増加させる医療制度改悪を行います。このままでは、小児科医、産科医だけではなく、勤勉な医師、看護師は逃げ出して、多くの保険医療機関はつぶれていき、国民は高い医療費負担を要求されます。医療に対する国民の信頼が回復されるはずがありません。さらにぎすぎすとした関係になるでしょう。
そこに残るのはアメリカ資本の民間医療保険会社が暗躍し、一部お金持ちだけしかまともな医療を受けることができない「Sicko」の世界です。これは遠い将来の話ではなくもう目の前に迫っているのです。すでに、国民健康保険に加入できない人が急増し、餓死者も年々報告され続けています。救急難民だけでなく医療難民、介護難民が現実のものとなっているのです。

我が国が憲法を改正したという正式な発表はありませんが、現実的にはすでになし崩しに第25条は削除されたようです。25条は日本国家が国民に対して「生存権」を確約した条項です。

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