私はオリンピックの東京開催に反対だ。
1964年に開催された前回の東京オリンピックは経済的に戦後からの復興を勢いづけ、精神的にも国民を敗戦から立ち直らせ、大変意味のある大会だったと思う。
しかし、すでに経済成長を十分に果たして、成熟期を過ぎ、少子高齢化を迎えた我が国が改めてオリンピックを開催する必要があるのだろうか。しかも、これからの発展を期待する地方都市で行うのならばいざ知らず、そうでなくても1極集中で過密化して身動きできない東京で開催する意義を私は見つけられない。
そもそも最近のオリンピックは、クーベルタン男爵のオリンピック復興趣旨とはどんどんかけ離れて、経済効果のみを追求する商業主義が蔓延して、今や利権の山、賄賂の海と化している。
IOC委員の巨額汚職事件は後を絶たない。開催国での利権をめぐる汚職事件はさらにひどいものだ。2016年東京オリンピックの開催費用が当初7000億円と言われていたのに、いつの間にか3兆円に膨れ上がっていた背景にも、オリンピックの名のもとに群がってくる金の亡者達の跋扈によるところが大きいだろう。
こうなるとオリンピックそのものの存在意義にさえ疑問を感じる。
などとオリンピック不要論をぼやきながら、結局2週間余りリオ・オリンピックをテレビ観戦してしまった。そしてたくさんの感動を頂いた。
水泳の400mメドレーリレーと陸上の400mリレーには興奮した。特に、陸上400mリレーは圧巻だった。第3走者桐生からアンカーのケンブリッジにバトンが渡った瞬間に隣のレーンを走る怪物ウサイン・ボルトに並んだシーンは何回観ても興奮してしまう。
小学校の運動会のラストを飾るクラス対抗リレーで全生徒、父兄、教員が大いに燃えたように、チームでバトンをつなぐリレー競技は個人競技よりも観衆を燃え立たせるようだ。
男子体操、男女の柔道、女子レスリングも日本勢が活躍して私たちを楽しませてくれたが、今回のオリンピックで私が認識を新たにしたのが卓球だ。
中・高時代の卓球部の練習場が地下室にあったせいなのか、卓球にはどうしても暗いイメージを持っていた。また、ほろ酔いで浴衣にスリッパという出で立ちの温泉卓球の思い出があるために、どうしても娯楽的要素を強く感じてしまう。
水谷を始め男子の卓球の試合は、私のこういった卓球に対するネガティブな先入観を払拭するに余りあるものだった。球技というより格闘技に近い迫力に圧倒された。
これまで観たことのなかったカヌー競技も、初めて銅メダルを獲得してくれたのでテレビ放映されて、馴染みのなかったこの競技がいかにダイナミックなものか思い知らされた。
日頃オリンピックを批判していたのに、なんだかんだ17日間テレビ付けになってしまった。やはり、この日のために4年間修練してきた選手のプレイはどの競技でも「素晴らしい」の一言に尽きた。
だが、例外的に、いくら見てもちっとも盛り上がりを感じない競技がいくつかあった。その筆頭はゴルフだろう。1流選手の多くが参加していなかったこともあるだろうが、4日間、およそ美しいとは言えないコースをただだらだらと回るゴルフは、オリンピックには似つかわしくない競技ではないかと感じた。
2020年の東京オリンピックでもゴルフが行われるようだが、国対抗で2人1組のマッチプレイ方式にするなどの工夫が必要ではないだろうか。
リボンをヒラヒラさせたりフラフープみたいなものを回したり投げたりする新体操とやらもオリンピックにふさわしいスポーツというよりはショーの要素が大きくてあまり興奮しなかった。同じ観点で言えばシンクロナイズドスイミングもなんとなく違和感を覚える競技だ。
オリンピックの競技はやはりシンプルに「速さ」や「強さ」を競うものが似合うと思う。新体操やシンクロナイズドスイミングなんかより、綱引きの方がよほどオリンピックにふさわしいと思うのだが、実現しそうもないのは残念なことである。
開催すると決まった以上、2020年の東京オリンピックは是非とも成功させてほしい。しかし、金に群がるシロアリたちによって「オリンピックなんだから」という言葉を錦の御旗にして、後世多大な重荷になる公共施設を法外な価格で建設される恐れがある。いや恐れではなく、すでに進行中の現実だ。
こういった火事場泥棒だけはのさばらせないよう今からでも監視しよう。そしてマスコミは私たちが監視できるようにできる限り情報収集をしていただきたい。