投稿日:2016年8月1日|カテゴリ:コラム

横溝正史の小説「八つ墓村」のモデルとなった津山事件(昭和13年、現・岡山県津山市加茂町行重)。2時間の間に28名が即死し、5名が重軽傷を負った(そのうち12時間以内に2名が死亡)し、犯人も自殺した。少なくとも1晩のうちに31名の命が失われた凄惨な殺人事件だった。
7月26日未明、神奈川県相模原市の障害者施設を舞台に26歳の男によって引き起こされた事件は、この戦前の津山事件に匹敵する大量殺人事件だった。
50分ほどの間にたった1人の男によって19名が刺殺され、26名が重軽傷を負った。しかも歩行者天国に車を突入させるような「、誰でもよい」、不特定多数の殺戮を狙った犯行ではなく、特定の人間を標的とし、用意周到に計画された殺人であることも津山事件に似ている。
事件の背景についてはまだ十分に公表されていないが、怨恨や快楽目的のための殺人ではないようだ。
「重度の障害者はもはや人間として認められず、その家族だけでなく、社会全体の重荷以外の何物でもない。常時介護を必要とするような重度障害者を生かし続けていくことは、社会に多大なる経済的負担を強いることになる。ひいては社会、世界全体の大いなる損失である。だから重度障害者は何らかの方法で抹殺するべきだ。」という、ヒトラーに繋がる優生思想に基づくヘイトクライムと考えられる。事実、被疑者、植松は警察で「ヒトラーの思想が降りてきた」というような発言をしているようだ。
植松自身が言っているように、こういう優生思想は口に出しはしないが、誰でも心の奥底に隠し持っている。人は多かれ少なかれ、本能的に自分と異質なものを忌避する。この本能的な行動を正当化、理論化すると優生思想に発展する。
では、誰もの心の奥に潜んでいるこの怪物がなぜ封印されるのかといえば、これまた人間が本能的に持つ、共感性、憐憫の情によるのではないだろうか。
我々はこういう思いやりの感情を情操教育によって育て上げて、異質な人たちと平和に共存できる寛容な社会を造り上げてきた。
ところが近年、人の心からこの寛容さが失われてきた。その結果が、アメリカにおける人種間の対立に基づく殺し合いであり、イスラム国を名乗る集団による異教徒の無差別殺戮だ。また、ヨーロッパ各国における右翼の台頭やイギリスのEU離脱、さらにはトランプのような内向きのアメリカ至上主義者の大統領候補を生みだしている。

なぜ、人々の心から情操力が低下して異質な者を排除しようとする怪物が暴れだしたのだろう。私は、常々苦言を呈してきた市場優先の新自由主義の台頭によるところが大きいと考える。
新自由主義とは自己責任を大原則に、競争こそが社会を動かす正しい原動力と考え、規制緩和、福祉・公共サービスの縮小、公営事業の民営化、労働者保護廃止などを推進する経済体制である。国家による富の再配分を進める社会民主主義と真っ向から対立する。我が国では中曽根康弘、小泉純一郎、安倍晋三などによって推進されてきた。
その結果が、企業のCEOが何十億円という年棒を受け取る一方で子供の給食費も支払い困難な貧困家庭の増加という、格差の拡大・継承であり、競争に勝ち残ったものが正しいという強者の論理の横行、まっとうな労働もしないでパソコンの前で株の売り買いをする者が大手を振って歩く、金こそがすべてという拝金主義の蔓延だ。
新自由主義によって人々の心には底なしの貪欲さがはびこり、寛容さが失われてしまった。実に他人に不寛容な社会になってしまった。
この不寛容な社会が、植松の心に棲む怪物を肥大化させ、ためらいなく実行に移させた一因であるように思う。

だが、私は植松の犯行を社会問題に帰着させる気はさらさらない。この事件はあくまで植松聖という一人の男の犯罪だ。大量殺人罪として厳正に処罰されるべきである。
ここで今問題にされているのが、今年2月に大島衆議院議長あてに送った犯行予告とも思える書簡をきっかけに措置入院させられた植松が、13日後に退院となり、その後の十分なフォロウがされてなかったことだ。
あたかも、医師の退院の判断が今回の凶行を現実化した原因でもあるかのような非難がましい報道もある。ネットの2ちゃんねるでは植松の措置入院先と退院を決定した医師探しが始まっている。病院は北里大学付属東病院と判明したが、担当した医師は心中穏やかならぬことだろう。
この事件をきっかけに、患者が起こす犯罪の責任を担当医師に課す風潮が出てくることが危惧される。
措置入院とは「自傷他害の惧れがある精神障害者を本人および家族の同意なしに都道府県知事の権限と責任において強制入院させる」制度で精神保健指定医2名以上の診察結果が一致する必要がある。そして、措置要件である自傷他害に結びつく精神症状が消退したと判断されたならば速やかに措置入院は解除しなければならない。この措置解除の判断は精神保健指定医1名の判断で可能となっている。
植松の場合には退院後半年もたたずに凶行に及んだために、措置解除が正しい判断でなかったのではないかと非難されているのだ。
だが、誤解しないでほしい。措置入院とは自傷他害の惧れのある者すべてに適応されるわけではない。あくまでも。その自傷他害行為が精神症状を基に成立している場合だけに限られる。「殺してやる」といった幻聴や、「やくざに取り囲まれている」といった被害妄想に基づいて人を殺める恐れがある患者さんを強制的に入院させる制度なのだ。
自傷他害の惧れがある者すべてを精神病院に強制入院させて、そういう危険性が無くなるまで病院に留めておかなければならないならば、精神病院はあっという間に暴力団員で溢れてしまう。
そもそも私たち精神科医は医師であって教育者でも宗教家でもない。精神科医は反社会的な考えを持っている人たちを悔い改めさせることはできないのだ。反社会的な考えが病気の症状として現れている場合だけ、私たちの治療が可能になる。この辺りを多くの人たちが理解していない。
この曖昧さが故に、精神科医療はこれまでも政治に利用され、翻弄されてきた歴史がある。スターリン時代のソ連を初め、多くの独裁国家で反体制派の人々が精神病者のレッテルを貼られて強制入院させられてきた。
今回の事件では「なぜ措置入院が短期間で退院となったのか」という点を問題にする前に、「そもそも植松の措置入院が適当であったのかどうか」について厳しい検討をすべきだろう。つまり、植松は精神病者だったのだろうか。私は甚だ疑わしく思っている。
彼のような危険思想の持ち主は私たち医師が管理するものではなく、テロリストと同様に公安機関などが管理していくべきものではないだろうか。

表面的に現れている症状の数を数えるだけで診断をする、今主流の操作的診断によって安易に措置入院を受け入れていると、そのうち、イスラム国と交流のある者や山口組の構成員まで精神科病院が抱え込むことになってしまいますよ。

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