投稿日:2016年2月29日|カテゴリ:コラム

母と入浴していた幼い頃の思い出。一緒に湯船に浸かっている母がなぜか私に背を向けている。「お母さん、お母さん」と呼びかけても返事がない。さらに「お母さん」と呼びかけると、急にこちらを振り向きざまに「うあわーー」と言いながら鬼のように怖い顔をした。

狭い湯船で逃げ場がない私は恐怖のあまり泣き出してしまった。

私のあまりの狼狽ぶりに、今度は母が取り乱して「ごめんごめん。大丈夫よ。もうしないから。」と元のやさしい顔に戻って抱きしめてくれた。それでも私はしばらく泣き止まなかった。

私の人生の中で最も怖い体験の一つだ。何せこの世の中で最も信頼していた人が突然変身したのだから。確固たる価値観が根底から覆されて、地球が崩壊したような恐怖だったに違いない。

でも今振り返って見るとあれは母のちょっとしたいたずらだったに過ぎない。あのころ母はまだ30代。我が子をびっくりさせてみようと思っても不思議ではない年頃だ。でもそんないたずらに過剰反応するほど普段の母は優しくて、私の拠り所だったと言えるだろう。ちょっと寂しい時、悲しい時、移り香の残る母の枕を抱きさえすれば安心して眠れた。

 

私は幼小児期とても病弱で麻布の愛育病院や広尾の日赤の小児科病棟は私の定宿だった。そんな子だから、母は常に私の健康状態にびくびくして、そばを離れないでいてくれた。少しでも顔色が悪くなると添い寝をしてくれ、熱があればこまめに氷嚢を変えたり、体を拭いてくれた。だから、どんなに具合が悪くても必ず母がついていてくれるという安心感に包まれていた。

とにかく優しい母だった。父もそうだが、私は両親にぶたれた思い出がない。どんな悪いことをしても、懇々と理屈で説かれた。

そんな母が子供相手に色をなしたことがあった。それは都会と田舎の違いの話題から、「お母さんの田舎にはバスはあるの?」と尋ねた時のことだ。「馬鹿にしないでよ。バスくらいあるわよ。」と言ったその顔には、我が子とは言え、故郷を侮辱されたことに対する怒りの表情があった。

 

母の故郷は近江。今の滋賀県八日市市だ。代々、歯科医を営む家の三女として生まれた。すぐ上の姉は若くして亡くなったので実質次女のような存在だったらしい。父、亀太郎は歯科医に限りない誇りを持っていた人で、跡継ぎの男児が生まれないことを嘆いていたようだ。そのためにかなり年の離れた長女に歯科医を養子に迎えるべく、地元の優秀な若者を選んで許嫁としてお金を出して歯科大学で勉強させたと聞く。

それくらい、「家」と「医業」に重きを置いていた父親だったから、普通ならば近隣の歯科医関係者のところに嫁がされるはずだったに違いない。だが、少し年を離れて弟が二人生まれたので、何が何でも歯科医と縁を結ばせなければならないというエネルギーが下がったものと思われる。

そうだとしても、祖父は滋賀県の歯科医師会長まで務めた地元の名士。自宅は県の文化遺産に指定されていたヴォ―リズ[i]の設計した瀟洒な洋館建てで、経済的にもかなりの資産家だった。地元でそれなりの家への結婚話はいくらでもあったと思うのだが、なぜ遠く離れた東京のサラリーマンに嫁いできたのだろう。

この点について母に問いただしたことがあった。亀太郎さんはとにかく患者さんを第一にする医師で、患者さんが来る限り診療を続けて、患者さんが食事の時間まで待つことになると、ご飯を振る舞ったと聞く。このために家庭は仕事場の延長になって、ほっとくつろげる時間がなかったらしい。

母は職場と家庭が混在した開業医の生活が嫌だった。そこで父と同じ会社に勤めていた従兄から父を紹介されると、一も二もなく東京のサラリーマンの妻の座に飛びついたのだそうだ。だから、私が医学部に進学が決まった時は「せっかく医者の家から離れたと思ったのに子供が医者になるなんて」と嘆いたものだ。

とは言っても、当時は特急列車でも東京―大阪が9時間以上かかった時代。さらに結婚の頃は戦争のさなかでその特急も次々と廃止されていた。おそらく1日がかりで上京したと思われる。さらに、東京と近江では風俗、習慣がかなり異なる。そこへもってきて姑が江戸っ子自慢の気の強い人だったから、結婚当初から日常生活の細かいこと一つ一つ厳しく教え込まれたそうだ。

中でも苦労したのが言葉。一生懸命東京弁で話そうとしても、ちょっとしたイント―ネーションが関西風になってしまって、その度に姑からなおされるので、次第にしゃべるのが嫌になってしまったと言っていた。

老年期になった母が私に、「東京ではあんたはやはり関西の人ねと言われる。たまに実家に帰り、昔に戻った気持ちで親兄弟と近江弁でしゃべっているつもりなのに、あんたはすっかり東京の人になってしまったねと言われる。私はもうどこの人でもないの。」と寂しそうにつぶやいたのを印象的に覚えている。

 

八日市の歯科医の家庭が嫌で東京へ嫁いだと言っていた母だったが、心の底では故郷を愛し、生真面目な父親をこの上なく尊敬していた。それが証拠に認知症が進んだここ数年は、西川という名前は忘れて、旧姓の「住井」を名乗り、「滋賀県に帰ります」と言って兄を困らせていた。父の写真を見ても誰だかわからない様子で、私や兄を自分の息子だという認識も失われていたのに、「私の父は亀太郎」と言って亀の形をしたストラップを大事にしていた。

 

近江のお嬢様に生まれ、東京に嫁ぎ、厳しい姑に仕え、空襲で焼け出され、夫を支え、私たち兄弟を慈しみ育ててくれた母が2月23日永眠した。享年95歳。きっとあの世で両親や先だった姉や弟たちから「敏子はん、お帰りやす」と迎えられているだろう。

 

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[i] William Merrell Vories(ウィリアム・メレル・ヴォーリズ):アメリカに生まれ日本で数多くの西洋建築を手掛けた建築家(1880~1964)。また、ヴォーリズ合名会社(のちの近江兄弟社)の創立者の一人としてメンソレータムを日本に普及させた実業家でもある。大の親日家で、太平洋戦争直後、マッカーサーと近衛文麿との仲介工作に尽力し、「天皇を守ったアメリカ人」とも称される。主な建築物としては関西学院大学西宮上ヶ原キャンパス群、明治学院チャペル、軽井沢ユニオン教会、山の上ホテルなど多数。

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