投稿日:2015年11月23日|カテゴリ:コラム

11月13日夜、パリの中心部で起きた同時多発テロはすでに129人の死亡者を出した。重傷者が100名近くいるというから、今後犠牲者数はさらに増えるだろう。
この事件を受けて、オランド大統領はフランスが戦争状態にあると宣言した。
大統領の戦争宣言は国民を鼓舞して一致団結させるための手段としての表現ではないだろう。私は、現在ISISが世界各地に展開している無差別虐殺行為はテロ行為ではなく戦争行為と言えると思う。

テロリズム(terrorism)とは政治的に対立する個人または集団に対してその肉体的抹殺も含めて組織的暴力を加える行為を言う。一般的には被抑圧者が圧倒的な力を持つ権力者に対する対抗手段として行われる場合が多いが、ロベスピエールの恐怖政治のように権力者によって政敵に対して系統的に行われる場合もある。
日本におけるテロとしては、古くは明治24年日本を訪問中のロシア帝国皇太子、ニコライを警察官の津田三蔵が切り付けて負傷させた大津事件がある。政治的背景としてはロシアの極東進出に対する国民の反発があった。
また、明治42年10月26日元首相出枢密院議長であった伊藤博文が日露戦争勝利後の満州・朝鮮の取り扱いについてロシア高官と非公式会談をするために訪れていたハルビンにおいて朝鮮人、安重根によって射殺された。朝鮮併合政策に対する恨みがその動機だ。
このように、昔のテロとは政治的に敵対する要人が標的とされものであった。
戦後になると東アジア反日武装戦線による連続企業爆破事件のように、一般大衆を巻き込んだテロが多くなってきた。それでも、日本のアジア侵略に加担しているとみなした旧財閥系企業や大手ゼネコンを主な標的としたものであった。
ところが、最近は平成7年にオウム真理教徒たちが引き起こした地下鉄サリン事件のように、広く一般大衆を虐殺して不安を煽り、社会体制の破壊を目的とする形態へと変化した。つまり、より卑怯で残虐な行為になったのだ。

戦争(war)どうだろう。こちらもその形態は時代とともに変わってきた。
古代は洋の東西に関らず、特殊に訓練を受けた戦士同士が隊列を組んで戦った。ギリシャの重装歩兵、モンゴルの騎馬隊、日本の武士の戦いなど、兵装や兵器は異なるが、いずれも旗幟を鮮明にして正面からぶつかり合って戦った。そして、権力者自らが大将として先頭に立って戦い、勝負はそれぞれの大将が死ぬか、降伏するかで決着した。
例外はあるが、大将が死ねば戦いはそこで終わり、それ以上の殺戮が行われることは少なかった。お互いの大将をとるのが目標だから将棋やチェスのようなものだ。と言うより、将棋やチェスは古代の戦争を模したゲームなのだ。
第1次大戦になると、権力者は前線から遠く離れた安全地帯で指揮をとり、兵士たちだけが要塞や塹壕にこもって打ち合うようになった。大型の大砲が味方の兵士の頭を飛び越えて相手陣地に炸裂して、それまでの戦争に比べてはるかに大量の人命を殺傷した。
第2次世界大戦になると宣戦布告なしの電撃戦が行われ、戦線が不明確になった。
1939年9月1日未明に勃発したドイツ軍のポーランド侵攻は明確な宣戦布告をせずに開始され、やがてこれが第2次世界大戦へと拡大した。1941年12月8日の日本軍真珠湾攻撃も宣戦布告なしに行われた電撃戦だ。
この不意打ち作戦がアメリカ国民の闘志をより一層掻き立ててしまった。しかし、日本は攻撃開始に先立ってアメリカに対して宣戦布告するはずであったのだが、駐米日本大使館の不手際で遅れてしまったもので、不意打ちとなったことは極めて不本意だったと言われる。
一方、真珠湾攻撃はアメリカの諜報活動によって既に察知されていたが、アメリカは敢えて知らぬふりをして、日本に卑怯者の烙印を押し、アメリカ国民の怒りを駆り立てたという説もある。
しかし、たとえ攻撃前に布告文書がホワイトハウスに届いていたとしても、それは攻撃開始の直前であり、相手に防御態勢を構築させないうちの、不意打ちに近い戦争開始を狙ったことは間違いない。
また、遠距離から攻撃できる兵器が開発されたことによって戦線というものがあいまいになったのも第2次世界大戦であった。
長距離戦略爆撃機、V2ロケットの開発によって遠く離れた敵国の中心部に攻撃ができるようになった。その結果、軍服を着て最前線に陣取っている兵士だけではなく、婦女子を含む一般市民が殺戮されるようになった。
ゲルニカやドレスデンの空襲、アメリカ軍の我が国本土に対する空襲がそれであり、この無差別大虐殺の集大成が広島、長崎への原子爆弾投下であった。
第2次大戦後はより一層、宣告なしの戦争や殺戮対象の無差別化が進んだ。ゲリラ戦によって兵士と非戦闘員との区別があいまいになった。化学兵器や生物兵器の開発普及によって大国でなく、少人数の集団でさえ何万にもの人間を殺戮することが可能となった。
兵器のハイテク化によって遠隔操作で巡航ミサイルや無人の攻撃機(ドローン)によって遠く離れた場所にいる人々を殺すことができるようになった。自分の安全は確保しながら大量虐殺する時代になったのだ。

どうだろう、こうしてみるともともと異なる形態であったはずの戦争行為とテロ行為だが、それぞれ時代とともに卑怯かつ残虐になってきた結果、がどんどん似てきた。そして今や両者を区別することなどできなくなってしまっている。
コンサートを楽しんでいる人を機銃掃射するなど許される行為ではないが、ゲーム感覚でドローンを飛ばして一般人を巻き込んだ空爆をする行為だって卑劣さではひけをとらない。最近、ロシアが広範囲に放射性物質をまき散らす兵器を実用化したとも聞く。何おか謂わんやである。
上り旗を立て、名乗りを上げて正々堂々ぶつかり合った古代の戦争に比べて、現在の戦争のなんと卑劣で残虐ななこと。戦争の形態は時代とともに確実に劣悪化してきた。

ある学者が言っていた言葉を思い出した。「人間の脳は建設的な発明より破壊的発明の方が得意なのだ。」
私たち人類はなんと度し難い生き物なのだろう。我々にはもともと自滅の道が約束されているのかもしれない。

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