東京新聞が今でも地道に福島第一原発事故に関する調査報道を続けていることは以前にお話しした。
その東京新聞が昨年に引き続いて行なった、都心部の河川の放射能汚染状況によれば、東京ドーム付近で神田川から分岐して皇居の北側を通り、日本橋の金融街を抜ける日本橋川流域では今も1kgあたり300ベクレルを超える放射性セシウムが残ることが判明した。もっとも高い値が検出されたのは東京証券取引所近くにかかる鎧橋付近で、なんと1kgあたり452ベクレルを示したと言う。
このほか神田川中流域の文京区、新宿区境界付近では150ベクレル前後の汚染物が堆積し、隅田川流域では200ベクレル前後が記録された。
これらの値は国が分別廃棄しなければならないと定めた、1kgあたり8000ベクレルをはるかに下回る数字ではあるが、長期にわたって環境中に放出された放射性物質が私たちを含めた環境にどのような影響を及ぼすのかは誰にも分からない。壮大な人体実験は今も継続中という訳だ。
他のマスコミは報道しないが、あれから3年半以上たった今、しかも事故現場から遠く離れた東京においても福島原発事故は収束していない。
そんなことはどこ吹く風、安倍政権は九州電力の川内原子力発電所1号炉に続いて2号炉も再開させた。
周辺住民の避難計画も確定されていない状態での1号炉の再稼働だけでも国民の将来の危険性を無視した暴挙であったが、さらに隣接する2号炉の再稼働によって災害時の危険性は相乗的に増加する。
福島第1原発での事故においては、複数の原子炉が隣接することによって被害が拡大した。1号機の水素爆発で全作業が一時中断させられ、3号機の爆発によって、突貫工事で完成したばかりの2号機の注水ラインが破壊されてしまった。複数の原子炉が悪影響を与えあって事態をより深刻化させたのだ。
安倍が声高に「世界一厳しい基準」と自画自賛する原子力規制委員会の新規制基準は、この福島での甚大な被害と引き換えに得た貴重な教訓を一切考慮していない。個別の原子炉が彼らの決めた基準を超えてさえいれば稼働可と判断するからだ。
原子力規制委員たちは自分たちの判断に対する責任の重大さをどこまで自覚しているのか。今、我が国の火山は各地で活発化している。桜島、霧島、さらには阿蘇山の大噴火も予想される。そういった事態が起きた時に「想定外の災害」という言い訳は通用しないことを肝に銘じておいてほしい。
さて、原発問題を考えると個の利益と公共の利益との相克が見えてくる。福島の例で分かるように、一朝事が起これば取り返しのつかない被害を受けるのは原発周辺に住む住民だ。それにもかかわらず、地元川内市議会、鹿児島県議会はいずれも再稼働に賛成した。地元は原発で利益を得ている者が多いのだ。再稼働反対の声はむしろ原発から離れたところから聞こえる。
なぜだろう、「原発が再稼働してくれなければ潰れてしまう」と嘆く飲み屋の女将の正直な発言はまだ理解できる。だが、可愛そうだが飲み屋の存続のために日本国民の将来を犠牲にするわけにはいかない。どこか場所を移して頑張っていただくしかない。
お膝元の住民は賛成する者が多い。原発職員は当然だが、飲み屋に限らず多かれ少なかれ原発に関係した生活をしているからだ。原発がなくなれば明日からの生活の基盤を失ってしまう。
原発に関わりの薄い仕事に就いている人は環境汚染で反対するかというとそうでもない。意外にも賛成者が多いのだ。なぜならば、原発が稼動すれば、電力会社からに加えて、政府から補助金の形で莫大な金が入るからだ。
原発立地市町村には例外なく道路を初めとするインフラが整備されて、場違いなほど立派な体育館やら公民館が建てられている。つまり原発の足下は金まみれなのである。
そもそも原発立地時に危険と引き替えに金を選んでいるのだから致し方ない。だから、もし事故によって被害を受けたとしても決して彼らは純粋な被害者ではない。それを承知で金を取ったのだから。
福島原発事故においても原発を立地した大熊町、双葉町の人たちについては刺して同情していない。可愛そうなのはこれまでなんら恩恵を受けていないにもかかわらず故郷を捨てなければならなくなった周辺の市町村民たちだ。
最も汚らわしい欲張り亡者は一部の県議会議員や県幹部だ。県議が金で横面をひっぱたかれるのは想像に難くないが、県職員の幹部も電力会社とべったり癒着している。
東日本大震災のあった2011年以降、原発立地あるいは立地予定の14道県の幹部OBの少なくとも45人が電力会社やその関連組織に天下りしている。
多くは電力会社と県が金を出し合って作った組織へ天下りしており、地元が原発から足抜けできない構図となっている。因みに、国家公務員では経済産業省や警察庁から71名もの天下りがある。
自分の利益のためなら公共の利益や国の将来のことなど言っていられないというわけだ。国民の一人一人がこのような価値基準である限り原発はやがてすべて再稼働し、さらには新設されていくだろう。
スイスで行われた放射性廃棄物処理施設の建設を巡っての有名なアンケート調査がある。
いろいろな場所が検討された結果、人口2100人くらいの寒村が候補地になった。そこで、国会の議決前に全村民に対してアンケートを行った。その結果大接戦であったが、51対49で受け入れ賛成となった。その後、国が保証金を出そうという話になったので、改めて保証金が出たとして受け入れるかどうかのアンケートを行なった。
日本であったら、当然受け入れ賛成票が多くなるはずだが、このスイスの村民は逆に受け入れ反対票が増えて、受け入れを拒否する結果となった。
つまり、誰もが嫌がる処分場だが、全国民のために自分たちが受け入れてもよいと考えていた人たちが、保証金が出ることによって利害打算の話になってしまったために反対に回ったのだ。つまり貴い使命としてならば受け入れるが、金で面を叩かれるなんて馬鹿にするなと言うことだ。
私たちは原発のような大きな問題に対しては、個人的な利害や損得とは別の次元、「それは本当に正しことなのか」、「孫子の代にも胸を張って説明できることなのか」と言う観点からの判断が求められる。
本来ならば、このこういった大局的な判断は政治家が率先しなければならないのだが、今の政治屋たちは利益団体の調整をしておこぼれをあずかろうという志の者たちばかりだ。
国民の一人一人がこの利益と言う観点から離れて「真に正しいことは何なのか?」と言う視点で考えていくしかない。そしてそれこそが真の民主主義を手に入れるための必要条件なのだ。