1973年チリでアウグスト・ピノチェットは軍事クーデターを起こし、独裁体制を敷いた。ピノチェットは残虐な警察力で市民を恐怖支配するとともに、「小さな政府」をスローガンにあらゆる福祉機能を切り捨てて、医療、教育、福祉などの大半を民営化した。この政策によって、チリ国民の生活は危機に立たされ、その危機に乗じて多国籍資本家が莫大な利益をものにした。
実はピノチェットの経済政策は「真の変革は危機状況によってのみ可能となる」として徹底した市場原理主義を主張したミルトン・フリーマンを筆頭とする経済学シカゴ学派の理論に沿うものであった。
実際、危機的状況下ではそれまでの様々な規制や手続きが省略されて、経済は大きく動く。2004年スマトラ沖地震による津波被害の復興にかこつけて先住の猟師たちを追い出してリゾートホテルを建てて、建築業者と観光業者そして彼らの意を受けて動いた一部の政治家と官僚が莫大な利益を獲得した。
2005年のハリケーン・カトリーナによって甚大な被害を被ったニューオーリンズの再建の御旗のもとに、それまで住んでいた黒人を主体とする貧困層を追い出して、街の再開発を画し、新自由主義経済主義のハゲタカが巨額の利潤をむさぼった。
このように災害に便乗して過激な経済的変革を強行して莫大な利益を求める経済理論を災害資本主義という。まさに他人の不幸は蜜の味を地で行く所業である。
この理論における危機的状況が自然災害にとどまらないことは自明の理だろう。人間が引き起こす革命や地域紛争、戦争も彼らの格好の漁場となる。地域紛争や戦争の場合には復興活動以前に兵器製造業者やそれを売りさばく武器商人たちが潤う。戦争資本主義という。
戦争は地震やハリケーンと違って意図的に起こせる。イラク戦争(2003年)は行き詰ったアメリカ経済復活のために仕組まれたという説は未だに根強く囁かれている。意図的ではなかったにしろ、敗戦後の我が国の経済復興の起爆剤となったのがお隣で起きた朝鮮戦争であったことは疑いようがない。
考えてみれば戦争ほど巨大な公共事業はない。歴史的に見ても経済不況が続くと戦争が起きてきた。世情不安が紛争を生むと考えられるが、その背後に経済を活性化させ巨大な利権を得ようとする国際的資本家の意図が働いていたと考えてもあながち間違いではないだろう。
カナダ人ジャーナリスト、ナオミ・クラインは災害資本主義や戦争資本主義などの惨事便乗型資本主義を「ショック・ドクトリン」と呼び、現代のもっとも危険な思想とみなして激しく非難した。
2020年再び東京でのオリンピックが開催される。オリンピック4年に一度世界中が待ち焦がれる祭典であり、その開催地となったことはおめでたいことであり、間違っても惨事ではないはずだ。
だがしかし、開催国にとって非日常的な出来事という点では地震や戦争と同じだ。国を挙げての大事業となると、惨事と同様に日常的な判断基準が通用しなくなる。常識が麻痺して無視されるのだ。そして、常識を述べるものは異端視されてはじき出される。それでなくても日本人は自分で考えるよりも、思考を停止して大勢に従う挙国一致が大好きだ。先の戦争においても非戦論者は非国民として圧殺され、多くの国民が進め一億火の玉だのスローガンに踊らされ続けた。
1964年の東京オリンピックは戦後日本復興の証として礼賛される。事実オリンピックを契機に新幹線、高速道路、地下鉄などのインフラが整備されて日本の近代化は一気に進んだ。オリンピックも一つのショック・ドクトリンだったのだ。ショック・ドクトリンで経済を大きく前進させることは納得せざるを得ない。
だがしかし、ショック・ドクトリンによる繁栄の陰には、声を封じられて圧殺されたものもあることを忘れてはいけない。だが、そういった失われたものや負の遺産は勝者たちの自画自賛の声によって皆の記憶から消されてしまう。
1964年の東京オリンピックを気に一斉に姿を消した白装束の傷痍軍人。あの人たちはあれ以降どうしたのだろう。都心を流れる小川に蓋をして下水に代えてしまった。また、川をつぶして応急的に作った首都高速道路は今や莫大な補修費を食いつぶしている。
2020年の東京オリンピックでは何が消えていくのだろう。原発被害者がいなかったことにでもされたら本当に怖い話だ。先のことは分からないが、今確実に言える負の遺産は新国立競技場だろう。当初見積もりの倍近い2520億円もの巨費を投じてあの馬鹿げた競技場を作ることは決定されてしまったようだ。安倍も国会で今さら設計変更はできないと答弁している。
2520億円といえば、北京やロンドンなど最近のオリンピックスタジアムが5,6個作れてしまう。国の財政赤字が雪だるま式に膨らみ、将来の若者へ負の遺産を残さないためとの名目で消費税を上げ、社会福祉を切り捨てている現在、なぜ見栄の塊を作らなければいけないのか。
さらに今の見積額にさえまだ嘘がある。最終的に支払われる金額は3000億円近くになるだろう。さらに、後回しにする開閉式の天井まで完成した時の最終額は考えただけで気が遠くなる。
あんな建物を見てみたいという動機でこのザハ案を一押しした安藤忠雄の無責任さには怒り心頭だ。批判的な意見が出てからは一切雲隠れ。実質上の最終決定となる7月7日の有識者会議にはなんと「個人的な理由で欠席」ときた。無責任にもほどがある。
私が最も懸念するのは建設後の維持管理費だ。今の見積でも50年で1046億円もかかると言われている。年20億円以上かけて維持していかなければならない。そして、最終的に解体しようとしてもこれまたとんでもない費用がかかる。一説には建設から解体までの総費用は1兆円を超えるという。将来の若者に対して、明らかな負の遺産ではないのではないだろうか。
現在のそして未来の国民に多大な負担を強いておきながら、当事者たちは誰も責任をとらない。こういうばかげた、しかし後世歴史に残るような建造物はメディチ家やビル・ゲイツのような大金持ちが私財で作るべきものだ。絶対に、反対の多い国民の税金で建てるべき代物ではないのだ。
どうしても素晴らしい建築物を作ってみたいならばたいした足しにはならなくても、安藤忠雄、森喜朗をはじめ当事者たちが個人資産を投げ打つことが前提だろう。ところが彼らは建設事業にただの一銭の私財を支出しないどころか、たんまりと甘い汁を吸っている。
それでも、政府をはじめ関係者はオリンピックのため、国威発揚のためと、原発再開や違憲の安保法案と同様に、ショック・ドクトリンの理論で押し切ってしまうだろう。今の日本人、とにかく決めてしまう、なりふり構わず実行する政府をよしとしているのだから。
皆さんいい加減に覚醒しませんか。