投稿日:2015年5月11日|カテゴリ:コラム

私の父は13年前の春の彼岸の日に亡くなった。享年87歳だった。死因は脳挫傷。事故死と言える。呆けもなく、つい1週間ほど前まで好きな煙草を吸い、電車であちこち出歩いていていたのだが、急性肺炎を患ってしまったために入院ということとなった。私の母校のベッドに空きがなかったので関連のH病院に入院させていただいた。
入院後、肺炎はみるみるよくなったとの報告を受けた矢先、病院から危篤の報が入ったので悲しいよりもびっくり仰天。慈恵医大の脳外科で厚い手当てを受けたが手のつくしようがなく、間もなく息を引き取った。
H病院の話によれば、夜中にトイレに行こうとして薄暗い廊下で転倒し、緊急脱出装置の収納ケースの角に頭をぶつけたとのこと。実にあっけない死に方であった。

先日、画期的な最高裁の判決が出た。骨子は「子供の起こした事故に対する親の責任を限定する」というものだ。
愛知県今治市の市立小学校の校庭で児童がサッカーの練習をしていた。蹴ったボールが門扉を越えて道路へ転がり、丁度バイクで走行中の80歳男性が転倒して足を骨折した。被害者はこの事故が原因となって寝たきりとなり、約1年4か月後に誤嚥性肺炎で死亡した。
被害者遺族はボールを蹴った児童の親を相手取って損害賠償訴訟を起こし、1審の大阪地裁と2審の大阪高裁は児童の両親に1千万円超の賠償を命じていた。
この上訴審で最高裁は「通常危険とされていない行為でたまたま人に損害を与えた場合には、親に賠償責任はない」との判断を示し、下級審へ差し戻したのだ。
本判決は一般市民感覚から言って至極当然であり、それまで無制限に親に責任が課せられていたことの方が不思議でならない。

私がこの判決を聞いて判決内容よりも、最近の日本でこのようなみっともない訴訟が横行している現実に対して嘆かわしさを感じた。
まったく悪意なくただ校庭で遊んでいた児童とその親に対して自分の父親の死の責任を取らせようとして恥ずかしくないのだろうか。万が一訴え出るのであれば、ミスキックをしてもボールが道路まで飛び出さないような対策を施していなかった学校と市に対しての賠償責任を問うのが本筋というものだろう。
報道によれば、学校や市に対する損害賠償訴訟は過去の判例から見て、時間がかかるし、必ずしも原告の勝利に終わらない。それに対して児童の親の監督責任を問う裁判は、それまでの判例では
九分九厘が問答無用で原告の全面勝訴となっていたために、攻撃対象を児童の保護者にしたという。自分の父親の命を盾にとって、取りやすいところから金を毟り取ろうとするものだ。
命の重さに軽重はないと言う大原則の建前がまかり通っているが、人生を全うしていつお迎えが来てもおかしくない老人と、これから子育てをしていかなければならない壮年期の人や、無限の可能性を秘めた青少年の命の重さに違いがあるのは言わずもがなではないだろうか。
なんの瑕疵もなくバイクで走行中、被害にあった被害者の御老人には大変お気の毒としか言いようがないが、この不幸な事故に出会わなかったとしてもあと数年で鬼籍に入られたのではないだろうか。しかもサッカーボールは直接の死因ではない。事故がなかったとしても老人がよくかかる嚥下性肺炎だ。
それなのに死去後、1年半近く前の事故を持ち出して高額の賠償金をサッカーをしていた児童とその親に求めるとは、私からすればみっともない行為だ。亡くなられた父上もそんなお金を望んでいたとは思えない。

私の父の死亡に際しても外野からは、「廊下に金属製の箱を置いてあるなんて重大な安全義務違反だ」と、病院に対する責任を問うべきだとの声もあった。しかし、母も兄も私もいかにも父らしい死に方だと考え、病院の責任を追及する気はさらさらなかった。
その理由は、父が「先生も看護婦さんもすごく良くしてくれている」と言っていたこと。病院は夜間排泄のために尿瓶をベッドサイドに用意してくれて、さらに看護課は「ベッドを離れる際には必ずナースコールをしてください」と言っていたこと。さらに私たちは、走行中の電車の中で走ってしまうほどせっかちでおっちょこちょい、そこへ加えていいところを見せたがる父の性格をよく知っていたからだ。
夜間の排尿に際しては尿瓶を使うかナースを読んでくださいと言われていたのに、「もうこんなに元気になった」と見栄を張って、一人で便所まで行こうとして、暗い廊下でつまずいて頭を打ちつけたというのが真相だと考えた。
とは言え、病院の廊下に金属製の箱が設置されているのは危ない話だが、父の事故を契機に改善されたと聞く。
せっかちな父がせっかちに死んでしまった。以前のコラムに書いたが、父はノモンハン事件、桜木町事件をくぐり抜けてきた強運の持ち主だったが、その運もついに尽きたということだろう。
でも考え方を変えてみれば、あっという間に脳がやられたのだから、おそらくほとんど苦しまなかったと思われる。寝たきりで長々とチューブに繋がれることなく一撃で死ねたのだから、むしろ最後の最後まで幸運だったと言えるかもしれない。
江戸っ子で見栄っ張りの父だったから、もし私たちが病院相手に訴訟など起こしていたら、「みっともないことするな」と一喝されただろう。

なんでも訴訟してお金を得ようとする現代の社会。「みっともない」という価値観が無くなったことと、日頃平穏に生きていられることが「運が良い」ことだという認識が無くなったことが大きな要因なのだと思う。
こうして感謝知らずの業突く張りばかりが幅を利かせる嘆かわしい世の中になった。
くわばら、くわばら。

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