美しい嫁の足に踏まれることを夢想して喜びに耽る老人を描いた谷崎潤一郎の「瘋癲老人日記」はフェティシズム文学の先駆けと言われている。「瘋癩老人日記」のほかにも谷崎の作品には女性の足に執着したものが多い。谷崎自身が脚フェティストであったらしい。
脚以外にも乳房、尻、手指、うなじ、腋の下、ふくらはぎ、鎖骨、耳、鼻、髪の毛など、女性の身体の局所部を偏愛して執着する男も少なくない。そして、性が大っぴらに語られるようになって、フェティシズムという言葉も一般的にになった。おっぱいフェチ、脇フェチ、尻フェチ、鎖骨フェチ、声フェチ、腹筋フェチ、メガネフェチといった具合にだ。大きな乳房の女性を好きな男が「ぼくはおっぱいフェチなんだ」などと軽いノリで自称することも珍しくない。
だが、こういう人の多くは性欲の対象が胸の大きな女性との性行為ということであって、乳房そのものが性の対象であるわけではない。しかも、巨大乳房の女性でないと欲情しないというほど歪曲した嗜好であることは稀である。
つまり、一般に用いられている「フェチ」は異性との交際や性行為が目的であって、それをより快適なものとするための嗜好性を指している。精神医学で考える狭義のフェティシズムとはかなりかけ離れた使われ方をしている。
ICD10のF65性嗜好障害の中のF65.0のフェティシズム(Fetishism)とは、①長期(少なくとも6か月以上)にわたる、生命のない対象物に対する強烈な性衝動、妄想、行動が持続、反復する、②その性衝動、妄想、行動により著しい苦痛、または社会的、職業的な障害を引き起こしている、③対象物は衣服や性具に限らない、と定義されている。
また、フェティシズムは男性にがほとんどと言われているが、前回のコラムでも書いたように、人の性嗜好の実態の把握は困難で、特に女性の嗜好は知ることが難しい。したがって女性にもフェティシズムが存在しないとは言い切れないのではないかと思う。
フェティシズムの対象としてハイヒール、ストッキング、パンティ、皮革・エナメルの衣装などが代表的品物だが、この他、女性のウェディングドレスやフォーマルスーツ、喪服、和服、舞台衣装、巫女衣装、ダンスウェア、男性のタキシード、フォーマルスーツ、紋付き袴といった非日常的な正装衣装へのフェチシズムも多い。
また、セーラー服、ブルマ、水着、男子の学生服、パイロットや警官の制服、さらには医師や看護師の白衣などの制服フェティも多く、「コスプレ」と称してこういった制服を取り揃えた風俗店も数多く見受ける。この他にレインコートに性的興奮を掻き立てられる男性も少なくない。
ところで下着泥棒には下着フェティストだけでなく強迫性障害の症状としての収集癖(Collectionism)や病的窃盗(Kleptomania)なども含まれると思われるので、下着泥棒=下着フェティストと考えない方がよいだろう。
形としてのこだわりではなく、素材に対してこだわりを持つ人もいる。この中で多いのがゴム。ラバーフェティシズムと呼ばれ欧米ではこれを対象とした専門誌も多い。女性の全身を覆うラバータイツに興奮するのだそうだ。
ゴムを素材とした変わったフェティシズムに風船フェティがある。風船を膨らませて抱いたり、変形させたりして快感を得る。ぎりぎりまで押しつぶして一部がくびれた形や破裂する瞬間に性的興奮を感じるようだ。他の素材としてはシルクやサテンなどもある。
物の状態に対する偏愛もある。大量の水でびしょびしょになった状態や汚水や泥水にまみれた姿に興奮する人や対象の衣装が切り裂かれたり燃えたりした状態に興奮する人など。
「生命のない対象物」という定義から考えると厳格にフェティシズムと言えるかどうか疑問だが、体の一部のある状態に性的興奮を覚える人たちもいる。ピアノやギターを弾く指、煙草を吸う指と唇、妊娠した状態などに対する偏愛者も相当いるように思われる。
身体の一部といえば便、尿、唾液、汗などの排泄物偏愛者もいる。髪の毛、しかもその色や長さなどに細かく執着する者も少なくない。さらには髪を切る情景に興奮する人もいる。
形はなさないが、異性の体臭に興奮することは珍しくない。体臭はフェロモンと密接な関係にあるのだから、汗や髪の毛の匂いや性腺の匂いに興奮するのは自然であってフェティシズムとする必要はない。しかし、便臭、尿臭、腋臭、靴で蒸れた足の匂い、血液の匂い、おならの匂い、吐物の匂い、死臭となるとかなりマニアックとなる。毛布の匂い、カビの匂い、石油の匂いとなるともうこれは立派なフェティシズムといってよいのだろう。
今回のコラムに納得された部分もあれば、想像もつかないと思われる部分もあっただろう。しかも、納得する部分は読者によって異なっていると思う。つまり、前回のコラムで述べたように人の性的嗜好は実に多岐多様である。性に王道などない。特にフェティシズムの場合、風船フェチのように滑稽でこそあれ、他人が眉を顰めて非難しなければならないものは少ない。
下着泥棒に通ずる下着フェティシズムや死臭フェティシズムなどを除けば、通常の性行為に支障をきたし、本人が苦痛と感じない限り、治療の対象とはならないのではないだろうか。