投稿日:2014年4月14日|カテゴリ:コラム

前回のコラムで症状と徴候は必ずしも一致しないとお話しした。この現象は私の科で最もポピュラーな睡眠障害でも見られる。本人の眠った感覚と客観的な睡眠の状態とが解離している状態だ。
その中で、客観的な徴候は無いか、ほとんど見られないのに、本人は「眠れない」という自覚的症状を訴える、症状優位な不眠の一群を古典的な診断名で「不眠神経症」という。
家族が見るとそれなりに眠っているし、脳波を測定すると、睡眠のパターンも正常であるにも関わらず、本人は「全然眠れない」、「何日も眠れていない」と強く訴える。客観的なデータを示して、ちゃんと眠れていることを説明しても「そんなはずはない」と納得しない。
こういう方は、「毎晩決まった時間眠らなければならない」、「睡眠時間が足りないと翌日ちゃんとした生活ができなくなる」と思い込んでいる。そしてほとんどの例で、健康にとって必要不可欠な睡眠時間を過剰に長く評価している。
成人の平均的な必要睡眠時間は6時間ちょっとであるのに、8時間は必要と思い込んでいる8時間は子供の睡眠時間で、実年の人の体はそんなに睡眠を必要としていない。それなのに勝手に一日の1/3は眠らなければいけないと決めているから、それよりも少しでも睡眠時間が少ないと大慌て。昼間の不都合なことはすべて睡眠不足のせいにする。そして、今晩こそちゃんと眠らなければと、一層、眠ることに固執する。
眠るということはすべての義務から解放された状態で成立する。言い換えれば何もしないでいると自然に眠ってしまうのだ。それなのに、こういう人にとって睡眠は、果たさなければならない重要な課題だ。「眠ってしまう」のでなく「眠らなければならない」では脳は緊張状態になってしまう。だから、よけいに寝つきが悪くなる。さらに発展すると、人生の究極の目的が眠ることになってしまう。
確かに寝不足が続くと起きている時のパフォ-マンスが低下する。だから、昼間の活動の質を高める目にはよく寝ておくに越したことはない。しかし、人生にとって大切なのは起きている時の生産的な活動だ。ノーベル賞級の研究をするのも、最愛の配偶者を射止めるのもすべて起きている時の活動による。決して夢の中では成し遂げられない。
したがって、良い睡眠をとるということは、豊かな人生を送るという目的達成のための一手段に過ぎない。ところが眠ることに捉われ過ぎると、この人生の目的と手段とを取り違えてしまう。眠ることが人生最大の目的と錯覚してしまうのだ。
この時間に外にいたら正しい時刻にベッドに入れないからからと、大切な用事を断ってしまう。これは睡眠によくないからと、美味しいご馳走を残してしまう。これではいくらよく眠れても、なんのために生きているのか分からない。だが、本人はそのことに気付かないで、残りの人生の大半を眠ることにかけようとするのだ。
この状態に陥っている方の治療の導入には睡眠導入薬を必要かもしれないが、根本的治療は睡眠に関する誤った認識をただすことだ。しかし、実際にはなかなか難しい。必要な睡眠はとれている。それ以上眠れなくても身体に異常はきたさない。といくら説明しても容易には納得してはくれない。やがて、自分が要求する薬を出してくれる医者を探してドクターショッピングの旅に出てしまうことが少なくない。

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