「もったいない(勿体無い)」とは元来、物の本来あるべき姿がなくなるのを惜しみ、嘆く気持ちを表す仏教用語である。転じて現在では、「物の価値を十分に生かしきれずに無駄になっている」状態や、その状態にしてしまう行為を表す意味に使われる。
ケニア出身の環境保護活動家でノーベル賞受賞者の、ワンガリ・マータイ女史が日本のこの言葉をしって、環境保護の観点から「MOTTAINAI」を世界共通の言葉にしようと奮闘している。
女史は「MOTTAINAI」に感銘を受けた理由を次のように説明している。一つは「もったいない」のように、自然や物に対する敬意や愛情が込められている言葉が他にないこと。二つ目には消費削減、再使用、再生利用に対する尊敬の念を表現できる言葉も「もったいない」以外にないことを挙げている。
私のクリニックでは様々な印刷物の裏白をメモ用紙として使っている。製薬会社の営業担当者がこれを見て、よほど経営が苦しいと思うのか、メモ用紙を置いて行ってくれる。しかし、いただいたメモ用紙を使うチャンスは滅多にない。何しろ毎日、大量のファックスや広告などの裏白紙が送られてくるからだ。
ファックス広告ほど失礼千万なものはない。なぜならば、こちらが要求してもいないのに、受信者の貴重な紙を使って、一方的に押し売りしてくるからだ。
非礼ではないが、関連団体や業者から送付してくるポスターにも辟易とする。送られてくるポスターはいずれも金のかかった力作だ。送り付けてくる企業や団体は自分たちのポスターが多くの施設の掲示板の中央にデンと貼り付けられる景色を想像しているのだろう。確かに送り付けられるポスターが2週間に1枚程度ならば、そういう風景になるかもしれない。しかし現実には、毎日のように送り付けられる立派なアート紙にすべて応えていたならば、小院の待合室の壁がポスターで埋め尽くされてしまう。 そうなったら、待合室がとても不愉快な空間になってしまうし、そんな壁の中の一点を誰が注目するだろうか。
今の時代、ポスターを作成して送り付けるという啓蒙方法自体が安易すぎるように思える。少なくとも当院に送られてきた高価なポスターの大半は裏を利用するか、資源ごみに出されるかだ。不効率な割には高価すぎる資源の浪費だと思う。
無駄が多いとはいえ、ポスターの目的はまだ納得できる場合が多い。壁に余裕があれば貼ってあげたいと思うが、郵便受けに大量に放り込まれるポスティングと呼ばれるチラシの類は、私だけでなく大半の方が捨てるのではないだろうか。初めから数十分の一の確率で読んでもらえればよいという目論見で量に配るのだろうが、まったくもって「もったいない」話だ。
全世界では1人当たり1年に約57kgの紙を消費している中、日本人は1人当たり240kgもの紙を消費しているそうだ。新聞紙、コピー用紙、プリント用紙、包装紙、広告紙、トイレットペーパー、ティッシュペーパー、段ボール紙などなどあわせて、世界平均の4倍もの紙を消費しているのだ。紙の原料が木材チップであることは言うまでもない。私たち日本人は猛烈な勢いで森林を伐採して、鼻をかんだり、直ちにごみとして焼却される無駄なチラシをまき散らしていることになる。
森林の減少は生息する動植物の絶滅の危機に追いやるだけではなく、私たち自身の生命をも脅かしている。なぜならば、植物は光合成によって空気中の炭酸ガスを酸素に変換してくれる。森林が減るということは炭酸ガス濃度の上昇を助長し地球温暖化に拍車をかけるからだ。
オーストラリアのタスマニア州では毎年サッカー場9,500個分の森林が伐採されている。この90%が日本へ輸出されている。タスマニアの住民は日本企業による森林破壊を食い止めようとする住民運動が持ち上がっているほどだ。
「もったいない」の本家であるはずの日本が、進駐軍の持ってきたチョコレートと一緒にもたらされた、大量消費生活に浸食され、今や世界有数の自然破壊国家になってしまっている。本家であるはずの日本で、「もったいない」という言葉がすでに死語となりつつある。恥ずかしい限りだ。おっと、「恥ずかしい」という言葉も死語だった。
インターネットが普及して、情報は求める側の意志でいくらでも手に入る。不動産屋さん、パチンコ屋さん、マッサージ屋さん、エステ屋さん、ただただ貴重な地球資源をごみとして燃やすポスティングは今すぐに止めてください。