投稿日:2012年5月7日|カテゴリ:コラム

「春眠暁を覚えず、処々啼鳥を聞く、夜来風雨の声、花落つることを知りぬ多少ぞ」。唐の時代の詩人、孟浩然の五言絶句「春暁」である。春の眠りは快くて、夜明けも知らずにうつらうつらしていると、あちこちで鳥のさえずる声が聞こえる。昨夜激しい雨風の音がしたが、おそらく花が沢山散ってしまったことだろう。
この詩を知らなくても、頭の「春眠暁を覚えず」の一節を知らない人はいないだろう。あまりにも有名な慣用句だ。
孟浩然の指摘する通り、春はよく眠れる。普段不眠で困っている人にはとてもありがたい季節だ。一方、昼間の眠気で困っていた人はなお一層眠気と闘わなければならない。
ではなぜ、春は眠りやすいのだろう。一つの説としては気温の上昇があげられる。ヒトは生きていくために体温を一定に保たなければならない恒温動物である。この恒温機能は発熱と保温のバランスよってなされる。
このうち保温機能の主役は、自律神経系を介した血管の収縮・拡張だ。寒くなると交感神経系が優位になり血管を収縮させる。すると寒い外界にさらされる血液の量が減るために、熱の放散量が減少する。
一方暑くなると、交感神経系の活動レベルが下がって副交感神経系優位になる。すると血管が拡張して身体の中の熱の放散量が増加する。さらには血管が特殊に変化した汗腺から、血液の中の液槳成分を体外に汗として分泌する。この汗が蒸発する際に気化熱が奪われることによって、より積極的に体温を下げる。
自律神経系は中枢においては精神的な緊張度のコントロールに関与する。緊張度が増すと交感神経系が優位になり、リラックスすると副交感神経系が優位になる。
さてここで春眠だが、春になって暖かくなると体温を下げようとして副交感神経優位となり、結果リラックスする。また、熱放散のために皮膚表面の血液量が増え、その分脳血流量が減る。気温が高くなるとこの両方のメカニズムによって眠くなるという解釈だ。

もう一つの原因として考えられているものがメラトニンという脳内ホルモンである。メラトニンは睡眠物質と呼ばれ、この分泌量が増えると脈拍、血圧、体温を下げて睡眠を誘発する。
メラトニンは視覚伝導系の一部にある松果体で分泌される。一日中一定の量が分泌されるのではなく、朝、太陽の光が目に入って約15時間後に分泌を初め光の量が減るに従って分泌量が増加する。つまり夕方から夜になるにつれてメラトニンの量が増えて午前2時頃に最大値となる。こうして睡眠・覚醒のリズムを司る体内時計の機能を果たしていると考えられている。
メラトニンの分泌量を一年を通してみると、日照時間の短い冬は分泌量が多く、日照時間の長い夏は少なくなるサイクルを示す。春は徐々に日照時間が長くなるのだが、メラトニンの減少速度がそれに追いつかない。つまり、日照時間に比べてメラトニンが脳内に溜まりすぎるので眠たくなるという説明である。

春の眠気についての説明はおおむね以上のようなものが多い。しかし、私はそう簡単に納得できない。なぜならば、今説明されたこととまったく正反対のメカニズムが働く秋も春と同様に眠たい季節だからだ。秋もまた、不眠者にとっては好環境、過眠者にとっては辛い季節である。「秋眠暁を覚えず」だ。
同じように眠くなるのだが、秋は交感神経が優位になり、皮膚表面の血液量が減少する。日照時間も短くなるのでメラトニンの分泌量が多くなる。それなのに春と似て眠くなることに関しては、先ほどの説明は成立しない。

どの分野においても同じことが言えるが、科学とは現在分かっていることで目の前の現象を説明しているだけのことである。分かっていないことや、知り得ないことはさておいている。目の前の現象に対してできる限り矛盾を生じずに説明することが科学なのだ。だから、どんなにクリアカットな説明も真実とは限らない。どんな学説に対しても眉に唾する姿勢で臨まなければならない。
「春眠暁を覚えず」に関する仮説も例外ではない。気温変化に伴う自律神経系の変化、日照時間の変化に伴うメラトニン分泌量の変化。どちらも大きく関与していることは間違いではないだろう。しかし、それだけでは十分に説明ができない。今のところ、暑すぎず寒すぎない快適な環境温度と、適度な湿度、さらには自律神経系機能やメラトニン分泌量などのバランスが引き起こす現象と言っておいた方が適切なのではないだろうか。

間もなくベとベととまとわりつくような湿気の梅雨がやってくる。せいぜい今のうちに心地よい眠りを楽しんでおこう。

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