投稿日:2011年12月25日|カテゴリ:コラム

ケニア出身の環境保護活動家、ワンガリ・マータイ女史は、本家の日本で死語となりつつあった「もったいない」という言葉を世界に広めてノーベル平和賞を受賞した。
「もったいない」に限らず、戦後数十年で死語と化しつつある日本の言葉や喩え、ことわざが多数ある。その多くは「みっともない」で代表される「恥」に関連した言葉ではないだろうか。「後ろ指さされる」、「親の顔が見てみたい」、「人様に顔向けができない」などなどである。
他人、世間から見られて恥ずかしくないような行動をするという訓えは、徳川時代から太平洋戦争終結までの日本を支えてきた行動理だ。「恥」は儒教を基盤にした武士道の重要な要素であった。
戦後もしばらくの間は「恥ずかしくない」ということを行動規範にする人が多かった。この人生観は精神障害の症状にも反映されていた。つまり、私が学生や研修医であった頃は、我が国の精神障害は「恥」の意識を基盤とする対人恐怖症状が圧倒的に多いとされてきた。一方、キリスト教を信仰する西欧では神との契約を破ることへの「罪」に基づいて、自分を責める抑うつ状態が多いと教えられた。
ところが近年、我が国でも精神の不調の大半が抑うつになってしまった。この理由の一つには診断法の変更がある。アメリカ精神医学の操作的診断法を採用することによって、神経症という疾患概念自体がなくなってしまった。対人緊張を主体とする神経症患者の行き場がなくなってしまったのである。
しかし、この診断方法の変更を割り引いて考えても、我が国の精神科医を訪れる患者さんの主症状は対人恐怖から抑うつに移り変わったように思う。それは日本人の心の中から恥の文化が急速に衰退していったことに起因しているのではないだろうか。
政治の世界に目をやってみよう。現在、坂本竜馬のような志を持った政治家がただの一人でもいるだろうか。口からでる「国益」、「国民のため」という言葉の裏に「私益」、「己のため」という本音が透けて見える。官僚もそうだ。ヨーロッパ列強の侵略を食い止め、我が国を近代化させた明治政府の官吏の気概はどこへ行ったのだろう。今は優秀な頭脳をひとえに自己利益と保身に活用している役人が多すぎる。民間に目をやっても大差はない。己の生業が社会の役に立つという誇りをもって会社経営している者がどれだけいるか。マネーゲームによって自社株の時価総額に一喜一憂している金の亡者が少なくない。いくら裕福で立派な肩書を持っていても、恥知らずでみっともない奴が多すぎるのだ。

日本人が「恥の文化」に変わって「罪の文化」を獲得したかといえば、そうではない。クリスマスやハロウィンで大騒ぎをしてもそれはただお祭り騒ぎが好きなだけ。信仰心とは程遠い。本質的に神と対峙する信仰を持たない日本人は、それまで拠り所としてきた「恥」をも失って、畢竟、精神の基盤を持たない流浪の民となってしまった。
ところが人間は何らかの道標がなければ安心して行動できないものである。そこで現代の日本人が行動規範として選択したものは「金」ではなかろうか。みっともなくても罪深くても金を稼げば成功。誤った勝者の論理だ。喰うものも手に入らない戦後闇市の時代に進駐軍が持ち込んだ甘いチョコレートによって、いつしか我が国は拝金教の国となってしまった。
高度成長、バブルと私たちは自分の足元を見ることを忘れていた。しかし、祭りは終わった。バブル崩壊によって我々が唯一拠り所としてきた拝金教にもはっきりと影が見えてきた。今の私たちは己の行動の範とすべきものを何一つ見いだせないでいる。
現代型うつ病の急増にもこうした背景があるのではないだろうか。恥いることもなく、ましてや罪の意識などないから他罰的になって、ただただ憂うつで不機嫌になる。
混迷する現在の日本を救うには、私たちの行動の拠り所を取り戻すことが不可欠だと考える。そこで、私は日本人の行動規範として、「もったいない」に加えて「みっともない」の復活を切望する。さらに、この二つの精神は日本人のみならず、ますます過密状態となる地球で、世界中の人々が上手に生きていくためのキーワードになるはずだ。

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