下手の横好きと言えば私のゴルフの右に出るものはない。しかし、私の横好きはそう他人様に迷惑をかけていないと思う。スコアは惨憺たるものだが、スロープレイではないからだ。
したがって私のゴルフの被害者は同伴者3名に限られる。しかも、たいていの場合、一緒にいるのは出発点のティーグラウンドとゴールのグリーン上だけである。ティーショットを打った後、私は他のメンバーと別れて林の中、あるいは崖の下を行くことになるので、私の奇怪なスィングを目にすることは少ない。だから、同伴者は数時間の間リズムを狂わされる程度の被害で済む。 ところが、世の中には一人の下手の横好きのおかげで多数の人間が甚大な被害をこうむる場合がある。
江戸時代の話、ある大店の旦那が義太夫に凝っていた。ところが御多分にもれずこの旦那の義太夫はすこぶる下手。しかも、すぐに他人に語りたがる、迷惑この上ない下手の横好きであった。いつも聞かされる店の番頭、小僧、長屋の店子たちはその度に身体の具合を悪くするほどであった。だから、いつまた義太夫語りの集合がかかるかと戦々恐々としていた。
周囲のそんな思いを知ってか知らずか、旦那はまたも義太夫会を企画。最近集まりがよくないので酒や御馳走を山ほど用意させて準備万端、皆を呼びにやらせる。ところが、提灯屋は開店祝いの提灯を大量に発注されててんてこ舞い、金物や無尽の役回りだから出席しないわけにはいかない。小間物屋は女房が臨月なために辞退。鳶の頭は成田山へのお参りの約束、豆腐屋は法事に出す生揚げやがんもどきを沢山発注されて大忙し、と全員断られてしまった。それならば店の使用人たちに聞かせようとするが、全員仮病を使って聴こうとしない。
怒った旦那は長屋の住民は全員追い出し、店の者は全員くびにすると言いだした。そんなことされたら皆明日から生きていけない。一同観念して義太夫を聴く決意をした。
そこで一同集まって、どうやってあのとてつもない義太夫からの被害を最小限に食い止めるか頭をひねる。とても正気では聴いていられないので酒を浴び、さっさと酔っ払って寝てしまうに限るという結論に達した。
義太夫が始まると我先にと酒を煽る。あっという間に、へべれけに酒がまわった一同全員が眠りに着いた。やがて自己陶酔していた旦那も皆の居眠りに気付いて激怒するが、丁稚の定吉だけがしくしくと泣いている。自分の義太夫に感激したと思った旦那は機嫌を直して、どの演目に感動したのかと定吉に問い正す。これに対する定吉の返事は「みんなが寝ちゃったんで、あたいの寝床が無くなってしまったんです。」
5代目古今亭志ん生とその息子3代目古今亭志ん朝が得意とした落語、「寝床」の一席である。
「俺の義太夫を聴かなければ長屋を出ていけ」とよく似た台詞を最近耳にした。「俺の顔を見たくなければ法案を通せ」という菅直人の恫喝だ。下手な義太夫は店の奉公人と店子が涙を飲めば済むが、下手な総理大臣の被害は与野党国会議員たちだけでは済まない。彼ら以上に甚大な損害を被ったのは他ならぬ私たち国民である。殊に震災被災地の人々が無能な為政者のために被った被害は計り知れない。
下手な横好きと笑ってすますことができるのは趣味の話。政治は国の存亡がかかっているのだから下手にやってもらっては困る。上手でなければならない。しかるにこのところ、政治家の顔から自分たちが「国の存亡」にかかわっているという真剣さが伺えないのは嘆かわしい限りだ。
とは言うものの、好きこそものの上手なれという言葉もある。どんなことも最初から上手な人はいない。好きと言うと少し軽いが、これを成し遂げたいという志がすべての出発点であることは否定できない。言い換えれば能力はあっても、上手になりたいという強い志がなければ何事も極めの領域には達しえない。
政治の世界で言えば、総理大臣としてこの国を治めたいという志がなければ政治上手にはなれないということだろうか。だから総理を目指すこと自体は政治家の必要条件かもしれない。ところが菅が好きなのは国を治めることではなく、総理大臣という地位に就きたいというただそれだけであったのではないか。しかも本当の政治は下手極まりない。最悪の宰相であった。
野田新総理。久々に言葉で人々を感動させる力を持っているように思える。この人の義太夫ならぬ、政治を見てみたいと思った。土壌でも朝顔でもよいから、志を形とする努力を続け、これ以上多くの定吉を泣かせないでほしい。