このコラムがアップロードされる頃には東京都議会議員選挙の結果が判明しています。この結果を受けて政局が大きく動き出すものと思われます。吉田茂の孫が売り文句の、誇り高い麻生さんとしては自分の手で解散総選挙をしたいところでしょうが、あまりの不人気ぶりに自民党はなりふり構わず総裁の交代を画策してくるでしょう。
小泉は口先では「自民党をぶっ壊す」と言いながら、自民党、なかでも清和会の勢力を飛躍的に増大させました。一方、自民党を救うべく登壇したはずの麻生さんですが、今後の出方によっては自民党を本当に解体させかねない状況になっています。
自民党はもともと政治理念で結びついた政党ではありません。それぞれが常に与党であり、ゆくゆくは閣僚、できれば総理大臣になりたいという野望という一点で結びついてきた集団です。ですから、そう簡単に下野の道を選択する筈がありません。国民に何と批判されようが、選挙のための政治、政局、謀略、強権、あらゆる手段を行使してくると思います。
その一環として、小沢元代表に対する西松建設がらみの政治献金法違反容疑事件がありました。さらにまた、鳩山由紀夫民主党党首の政治献金虚偽記載容疑を引っ張り出してきました。新総裁での選挙態勢が整うまでの時間稼ぎをも兼ねて、与党ならびに現体制を維持したい勢力はこの問題で執拗に攻めてくると思われます。
日本は建前上では三権分立ということになっていますが、実際には行政府の法務大臣が検察、裁判官の人事権を握っていますから、国家寄りの判断に偏っているように思えます。歴史的に見てもしばしば政府与党の要請を受けた国策捜査、国策判断をしてきました。国家賠償訴訟で国民側が勝利することは稀有です。
司法と行政との癒着は何も我が国だけに限ったことではありません。しかし不幸なことに、日本は長きにわたって政権交代がなされてきませんでしたから、その相互依存関係が抜き差しならない状況になっています。私はともかく一回、政権交代をして過去の膿を洗い出さなければならないと考えます。
司法の独立性の話は後日に譲るとして、今回はこういった政局がらみのキャンペーンにおいて活躍する調査・アンケー結果の数字を安直に信用することの危険性についてお話します。
鳩山代表の政治献金虚偽記載に関して、マスコミがそれぞれ国民に対する調査結果と称する数字を出してきました。それによると鳩山さんの記者会見による説明に「納得できた」人は20%に満たず、「納得できない」人が80%近くでした。こぞって「説明責任を果たすべきだ」という結論で結んでいます。こういった数字と「説明責任」の四文字熟語は西松献金容疑の際の小沢さんに対しても雨霰のように浴びせられました。
まず私が述べたいことは最近よく耳にするこの「説明責任」という言葉が非常に耳障りだということです。こういう大義名分をうたった抽象的な四文字熟語はきわめて危険なのです。具体性がなく、しかも反論できないからです。
いったいどこまで説明すれば責任を果たしたと皆が納得するのでしょうか。納得するかしないかということは相手の胸のうちです。相手が満足する答えを口にするまでは責任を果たしていないと言われてしまえば、お互いに利害が一致しない人たち相手に責任を果たすことは不可能です。
冤罪事件で問題にされる警察の取り調べと一緒です。いくら「やっていない」と言っても、こいつを犯人だと思い込んでいる刑事が納得するはずがありません。容疑者は説明責任を果たしていないと連日、執拗に「本当のことを話せ」と追及されて、ついには自分がやってもいない犯罪について自白してしまいます。刑事の側から言えば、これでやっと説明責任を果たしたということなのでしょうが。
小沢さんの時にもマスコミ主導で刑事の取り調べと同じような「説明責任コール」が行われました。大衆とは存外嗜虐的ですから、こう言った時には当事者が涙を流して「参りました。降参です。悪うございました。切腹させていただきます。」と言うまでは容赦しません。
さらに強調したい点は、この際に使われる世論調査結果と称する数字です。私は研究生活が長く、研究に欠かせない統計学を一生懸命学んだと自負しています。そのお陰で統計的手法は使い方次第でいかような結果も導き出せるということを知りました。ところが、一般の方の多くは統計というものに通じていらっしゃいません。ですから出てきた数字だけを鵜呑みにして、容易に作者が意図する結論に誘導されてしまいます。
例えば答えの選択肢を「充分に説明責任を果たしたと思う」と「そうは思わない」にしたとしましょう。「充分に」という言葉が入っていると、このハードルは相当に高くなります。少しでも欠けていると思われるところがあれば「そうは思わない」になってしまいます。つまり質問の段階で答えの分岐点が中央値でないのです。80から90の所に選択肢の分岐点がありますから、「そうは思わない」という回答が多くて当たり前なのです。
こうして得られた数字が「国民の80%が説明責任を果たしているとは考えていない」という見出しに加工されれば、かなり実態とはずれた世論が出来上がります。
衆議員議員総選挙と同時に行われる最高裁判所判事国民審査について関心をお持ちの方はいらっしゃいますか。じつはこれが司法に対して国民が意思表示できる唯一の機会なのです。にも拘らず、ほとんどの国民は現在最高裁判所判事の名前すら知りません。
関心がないことに答えを求められた場合、人間は最初の答えに丸をつけます。ですからこの国民審査の結果は常に一番最初に名前を載せられた人が一番多く丸を頂く結果になっています。
アンケートを作成するときには自分が望む答えを選択肢の一番最初にデザインすると期待通りの結果を得ることができます。なぜならばその問題に対する回答者の関心度が千差万別であり、すべての人が真剣に応えるわけではないからです。最高裁判所判事国民審査にならって、巧妙にデザインしたアンケートをなるべく無関心な人を対象に行えば、結果は意のままです。
今や客観性を求めて、ありとあらゆるものを数値化して示す傾向にあります。本来数値化するには無理がある物事までも数字で示さないと大衆が納得しないからです。逆に言えば、数値にさえなっていれば、盲信してしまう人が少なくないと言えるのです。
この数値偏重主義は前回のコラムで触れた「要するに」や「一言でいえば」文化に通じます。なんでも簡単に数値として視覚化されてさえいれば、とくにその分野に通じていない人でも、簡単に理解できるはずであると信じている人が多いのです。
中世まではガリレオ裁判に象徴されるように、まず神ありきという偏見によって科学が抹殺されてきました。ルネッサンス、産業革命を経て科学的思考が宗教を凌駕してきました。しかし、今度はそれが行き過ぎているように思えます。
この世にはきわめて重要だが、主観的にしか表現できないが事柄が厳然と存在しています。それにも関わらず、そのような事象は客観性がないとか科学的でないという理由だけで軽視されたり無視される傾向があります。
また、曖昧なこと、真実とは程遠いことでさえ、科学的手法を通してロンダリングし、数値化された「エビデンス(証拠)」というカタカナ言葉で示して見せれば、簡単に人を説得させることができます。
このような詐欺的手法で人々をだまして世界中を未曽有の混乱に陥れた良い例が今回のアメリカ発金融崩壊です。今回の危機は金融工学という、一見科学的に見える手法によって創作された「エビデンス」を基に作られた金融商品の破綻で引き起こされたのです
「エビデンス」は先のアメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュが対イラク戦争を始める際の演説の中でも使われました。「サダム・フセインの率いるイラク政府が大量破壊兵器を準備しているというエビデンスがあるから世界平和のためにイラクと開戦しなければならない」。この「エビデンス」がどういう結末になったかは皆さんよくご存じのとおりです。
国家が関連する政治、戦争それから国家ぐるみの金融犯罪だけでなく、日常的な詐欺においても、最近では霊感よりも怪しげな数字で人々を煙に巻くやり口が増加しています。「科学信仰」が上手に利用されているのです。
私の専門である医学の世界においても「エビデンス」がわがもの顔にのし歩いています。以前のコラムでも書きましたが、各製薬会社はそれぞれ御用達学者を雇っているようです。
A製薬会社主催の講演会ではX先生が全国を練り歩いてその会社が販売している薬が一番すぐれているという発表します。一方、Y先生はB社主催の勉強会でB社の薬がすぐれていると力説します。そしてややこしいことには、どちらも立派な「エビデンス」を示します。どうやらそれぞれの会社に都合のよいエビデンスがあるようです。
ある程度薬に関する基礎知識や研究、統計のことを知っていれば、そういった「エビデンス」は眉に唾を塗って聞き流してしまいますが、そうでないと「エビデンス」が独り歩きすることになります。困ったものです。
万病に効く薬はない。リスクがない金儲けはあり得ない。こういった自明の理を説得するのにエビデンスを持ち出す必要はありません。難しい数値や「エビデンス」が出てきたら要注意です。皆さん眉に唾する準備を怠らないように。