投稿日:2011年7月18日|カテゴリ:コラム

あるところに正直村と嘘つき村という2つの村がありました。正直村の人は必ず本当のことを正直に言います。一方、嘘つき村の人は必ず本当のこととは逆のことを言います。正直村に行こうとした貴方は、分かれ道に来ました。一方は正直村に、もう一方は嘘つき村に通じていますが、どちらに行けばよいかわかりません。ちょうどその分かれ道に1人の村人が座っています。その男に道を聞きたいところです。しかし、その人が正直村の人か、嘘つき村の人かは分かりません。もし、その人が正直村の人ならば正直に道を教えてくれるでしょう。しかし、嘘つき村の人ならば全く反対の道に案内されてしまいます。その人に一言だけ質問して正直村へ行く正しい道を知るにはどう尋ねればよいでしょう?
これはよく知られた論理クイズ、「正直村と嘘つき村」。正解は「「貴方はどちらから来たのですか」である。
もし、この村人が正直村の人ならば、正直に正直村への道を教えてくれる。もしこの村人が嘘つき村の男ならば、嘘をつくので、自分が来た道ではない、正直村への道を教える。と言うことは、その男がどちらの村人だとしても、正直村へ行く道を指し示す。したがって、その男がどこの出身かとは関係なく、その男が示す方の道を進んでいけば無事に正直村に着くことができる。

嘘つきに対する実にスマートな対処法である。ところが現実の嘘つきははるかに厄介で、これほど簡単にはいかない。なぜならば、本当の嘘つきは必ず嘘をつくとは限らない。嘘と本当を絶妙の配合で織り交ぜてくるからだ。
嘘つきのプロ、詐欺師ともなると心してかかっても騙されてしまう。こういった輩の手口を知り尽くしているはずの警察官や弁護士までもが被害に遭うことがある。
生来人を信じやすい私は、これまで数えきれないほど嘘に振り回されてきた。騙されたと気付いた嘘はまだ可愛い方で、未だに気がつかないまま大きな嘘の世界で踊らされているのかもしれない。それでも、これまでの苦い経験から、嘘から身を守る嗅覚を少しは鍛えたつもりである。そこで、私なりに危ないと思う人物や状況の幾つかをお教えする。
まず、「本音を言うと」「正直言って」「率直に申し上げて」という前振りには要注意。こういった言葉は正しい語意と正反対に、「建て前を言うと」「嘘を言うと」「あることないこと織り交ぜて言うと」と解釈してまず間違いない。この前振りを聞いたならば急いで眉に唾しなければならない。
なぜならば、もともと正直な発言をする者ならば、何もわざわざ「正直言うと」などと断る必要がない。したがって、こういった前振りをするということは自分が嘘つきであることを認めているに等しい。さっきのクイズの論理から言って、その嘘つきが大上段に振りかぶって「正直」というのだから、大嘘に決まっている。
こういう前振りを頻発する人がいる。そういう人は大抵あることないこと織り交ぜて喋ることを習いにしていることが多いので、常に話半分にして聞くことにしている。
私が心を許さないことにしているもう一つのタイプは、口元が笑っているのに目が笑わない笑顔の人である。こういう人に限ってやたらと笑顔を振りまく傾向がある。周囲からは温厚で優しい人という評価を得ていることが多い。しかし、温厚の源である笑顔をじっくりと観察すると、柔らかい口元には不似合いな冷たい視線を感じる。
目が笑わない人は単純な嘘つきとは違う。細かい嘘をつくというより、大きな局面で裏切られることが多い。情緒的なつながりを持ちにくく、人間として信頼できない。つまり、口元の「いつも貴方のことを思っていますよ」という笑顔を信じて心を許していると、重大な局面の時に頼っていくと、「これは君自身問題でしょう」という冷徹な眼差しにばっさりと切り捨てられることを覚悟しておかなければならない。

最近、世の中は嘘つき村の住民に占拠されてしまった感がある。至る所で嘘が横行し、より上手な嘘つきが出世する仕組みが確立してしまった。ことに政界における跳梁跋扈は目に余るものがある。
利、巧、令が幅を利かし、仁、義、信といった字句が死滅してしまった。その極みが管総理だろう。その場その場受けの良い言葉を発することでひたすら保身に走っている。しかし、彼を非難する議員たちも、そうしたらテレビでいかにも真面目で情熱的に映るかという点にしか頭が働いていない。
嘘つき村民だらけの中から一人の正直村村民を見つけ出すためにはどんな質問をすればよいのだろう。私にはその正解は全く見えてこない。

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