投稿日:2009年7月27日|カテゴリ:コラム

久しぶりに精神医学の話に戻ります。統合失調症には特徴的な症状がいくもあります。このうち幻聴、被害関係妄想、させられ体験については昨年のコラムで説明しました。今日は「病識欠如」という症状のお話をします。
「病識」はドイツ語でKrankheitseinsichit、英語ではinsight of disease
と言います。つまり「疾病に対する洞察」という意味です。一般的には「自分が病気であることを認識する能力」と説明されていますが、実際にはこのような簡単な説明では表現できないデリケートな見当識の一種です。
病識という言葉はピック病を発見したA.Pickが用い始めましたが、明確な定義をしたのは精神医学の巨人、カール・ヤスパース(K.Jaspers)です。
ヤスパースは、個々の疾病症状全部、あるいは病全体として、種類も重さも正しく判断されることを病識としています。ただしその基準は「同一文化圏の平均的健康人と病人との間にできる判断の正しさに到達しさえすればよい」としています。
非常に難しい表現で余計に分からなくなってしまいそうです。私は「自分の今の状態が今までとは違っている。そしてその違和感は周囲が変化したためではなく自分の変化だ。今までの自分が健康な自分であるはずだから今の自分は病気に違いない。と判断できる能力」と理解しています。
病気の理解とは何も科学的な理解を要求はしません。医学を勉強していない人が難しい病名やら分類やらを知ってる筈がありませんから。逆にどこかで耳にしたことのある専門的な用語を並べたてていたとしても、自分が病んでいるという肝心のこととに結びついていない人も少なくありません。「なんかヤバい。病気かも?」と直感できることが本質です。
統合失調症では極めて高率(ほぼ全例)でこの病識が欠けてきます。要するに、自分が病気であることを認められなくなるのです。ですから同時に起きる幻聴や妄想を自分が病気であるために起きているとは認められないで、間違いなく他人が自分に仕掛けてきた迫害や嫌がらせだと強固に確信してしまうのです。
「病識の欠如」は治療上、最も厄介な症状です。自分が病気であるという認識がないのですから治療に応じてくれません。家族が病院に連れてくることさえ困難な場合が少なくありません。なんとか診察を受けてくれても薬を飲んでもらうのはさらに一苦労です。
こういう状態の人をどんなに理屈で説得しようとしてもうまくいきません。知的な理解を超えた別の次元の障害だからです。昔、著名な精神科医自身が統合失調症にかかりました。普段、患者さんや医学生に対して「幻聴とは」といった精神医学の説明や講義をしているにも関わらず、自分の幻聴は「これは本当の声だ」と言い張り、頑として自分の病気を認めなかったそうです。
ではこの症状の本体とは何なのでしょう。私は「自」と「他」、「主観」と「客観」との弁別能力が低下すること、もしくは「自」と「他」の座標軸がずれてしまうことに起因すると考えています。
私たちは自分が得た情報を「自分が内に感じたもの」と「外部から得たもの」を区別して総合判断しています。それによって主観的に感じることを客観的情報とすり合せて、自分の対応が現実世界と齟齬をきたさないように調整しています。その能力が低下すれば、自分に不都合な出来事を自分の不調とは捉えられずに外部からの不都合と解釈してしまうのではないでしょうか。

この病識欠如という厄介な症状があるために、精神科医療では他科のように、インフォームドコンセントを得ることなく治療に踏み切らざるを得ない場合があります。本人が拒否しても家族の同意の下に入院治療する「医療保護入院」という制度。もっと重症で自傷他害(自殺あるいは他者への傷害)の恐れのある患者さんの場合には家族の同意がなくても都道府県知事の命令で強制入院させる「措置入院」という制度まであります。こういった制度があるのはひとえに「病識欠如」という症状があるためです。
本来は患者さんの同意を得て治療するべきなのですが、こういった精神科特有の事情があるのです。しかし、本人の意思に逆らっても強制的に治療を施しても構わないという根拠はあくまでも、その治療が患者さん自身のためでもあるという大前提がなければいけません。
社会はともすると自分と異質なものを排除しがちです。ナチスによる民族浄化、学校や職場でのいじめ、ヒステリックな嫌煙運動等々です。
こういう社会管理の道具に医学、とくに精神医学は利用されやすいのです。その際のキーワードが「病識欠如」です。
これを拡大解釈すれば、権力の意にそわない者すべてに精神障害のレッテルを貼ることが可能です。スターリン時代の旧ソ連においてはこうやって多くの反体制派の人々が精神病院に収容されました。そこまではいかなくても、「病識欠如」を利用して、生活保護を受けている弱者を強制的に受診させる手口で儲けているあくどい精神科医もいます。ですから、周囲が迷惑するからという理由からだけで、本人に不利益な治療を強制することだけは絶対にあってはなりません。

さて、この「病識欠如」の状態は統合失調症だけに特有なものなのでしょうか。私は恋愛にのぼせている時の脳の状態に極めて似ているように思います。恋の病に冒されている時には周囲が口を酸っぱくして何を説得しても聞く耳を持ちません。しかし、こちらの方は措置入院などさせるわけには参りませんから、自然治癒力を信じて見守るしかなさそうです。治癒しないで一生病に冒されている方が幸せかもしれませんが、恋の病も必ず治ってしまいます。
残念。

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